ミラン・クンデラ「小説の精神」)(2)


  第7部 エルサレム講演 小説とヨーロッパ

 以下,引用。
 『フローベールによりますと、小説家とはその作品の背後に身を隠したいと思っている者のことです。作品の背後に身を隠すとは、公的人間の役を放棄するということです。(中略)つまり、小説家は公的人間の役を引き受けることで、自分の作品を危険におとし入れるのであり、作品は、彼の行為、声明、立場の選択などのたんなる附録とみなされてしまう危険があるのです。(中略)小説とは何でしょうか。「人間は考え、神は笑う」という、みごとなユダヤの諺があります。(中略)なぜ神は考えている人間を見て笑うのでしょうか。それは人間が考えても、真実は人間から逃げていってしまうからであり、複数の人間が考えれば、一方の考えは他方の考えとますますへだたってしまうからであり、そして最後に、人間は自分がそうであると考えるものでは決してないからです。中世を脱出した人間の、この根本的状況が明らかになるのは、近代の黎明期です。(中略)ヨーロッパの最初の小説家たちは、この新しい状況を見て取り、この状況の上に新しい芸術を、小説という芸術を確立したのでした。
 フランソワ・ラブレーはたくさんの新語をつくりました。(その内の一つの)アジェラストという言葉は、(忘却されてしまいましたが)笑わぬ者、ユーモアのセンスのない者の意味です。ラブレーはアジェラストを憎み、恐れていました。
 小説家とアジェラストの和解は不可能です。アジェラストたちは、真実は明瞭であり、すべての人間は同じことを考えているはずであり、そして自分たちは自分たちがそうであると考えているものであると納得しています。しかし人間が個人となったのは、まさに真実の確信と他者の満場一致の同意を失うことによってなのです。(中略)
 したがって、芸術を、なかんずく小説を考慮することなしに、ひとつの世紀の精神を、もっぱらそのもろもろの観念や理論的概念にしたがって判断することはできません。十九世紀は機関車を発明しました。ヘーゲルは普遍的「歴史」の精神そのものを把握したと確信していました。フローベールは愚かさを発見しました。私はあえて申しますが、これこそ、おのれの科学的理性をかくも誇りに思っていた世紀の最大の発見です。(中略)
 (フローベールによれば、愚かさはたんなる認識の不在、教育によって矯正可能な一つの欠点ではなく)人間の存在と切り離すことのできない(ものなのであり)、進歩とともに、愚かさもまた進歩する!(のです。)
 (中略)(この愚かさが、やがて一つの力となって)あらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(中略)
 アジェラストたち、先入見の無思想、キッチ、これらのものは、神の笑いのことだまとして生まれた芸術の、三つの頭をもった同じひとつの敵です。この芸術は、だれも真実の所有者ではなく、しかもだれもが理解される権利をもっている、あの魅惑的な創造的空間を創出することができました。この創造的空間は、近代ヨーロッパとともに生まれました。それはヨーロッパのイメージであり、というか、すくなくともヨーロッパに抱く私たちの夢です。(中略)個人が尊敬される世界(小説の創造的世界と、ヨーロッパの現実の世界)がもろく、はかないものであることを私たちは知っています。はるか地平には、アジェラストたちの軍隊が私たちをねらています。(中略)今日、ヨーロッパの文化が私にとって脅かされているように見えるにしても、ヨーロッパ文化のもっとも貴重なものが外部からも内部からも脅かされているとしても、個人の尊重、個人の自由の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、私には金庫ともいうべき小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられているように思われるからです。』 p183−192から適宜文意補足を挿入しながら引用)。
 
 ここに見られる、小説への強烈な信頼というものを、日本の小説家はもっているだろうか? 「個人」への確信がないところに小説はない。(ところで、後述する「うしろめたさ」と「だれも真実の所有者ではない」ことはどう関係するのだろう?)
 だから、近年、小説の衰微あるいは終焉がいわれるようになっているのも、われわれが「個人」というものに以前ほどの信頼をおけなくなっていることに起因しているのだろう。

 以下ののようなケースについて考えてみる。

 1)Aさんが亡くなったあと、その友達たちは、「いいひと」だったAさんをしのんだ。2)そのあと、Aさんのコンピュータから手記が発見され、想像もしていなかったAさんの知られざる一面を知って、友達たちはびっくりした。3)しかし、あとになって、それは手記ではなく、Aさんが書いていた小説の一部であることがわかった。
 Aさんは本当はどんなひとだったのだろうか?(事例1)
 
 1)Bさんが亡くなったあと、その友達たちは、子煩悩で愛妻家だったBさんをしのんだ。2)しばらくして、Bさんには長年の愛人があり認知した子供まであったことがわかり当惑した。3)しかし、Bさんのコンピュータから、若気のあやまちから子供ができてしまった愛人から金品をせびられ困惑していたことを記した手記が見つかり、友達たちはやはり彼は愛妻家であったのだと納得した。4)だが、それ以外に友達に託した別の遺書がみつかり、コンピュータの中の手記は妻に発見されることを予想し、妻への弁明のためにわざと残した手記であり、自分の心は愛人のほうにある。これからも愛人とその子供をよろしく頼むとあった。
 Bさんの本当の気持ちはどちらに?(事例2)

 事例1において、手記がなければAさんはたんなる「いいひと」である。
 事例2において、愛人や子供が発見されなければ、Bさんはたんなる「愛妻家」の「子煩悩」である。それは、われわれが通常、他人をその行動によって判断するから。
 ひとの頭の中は外からは見えないし、わからない。
 そのひとの行動という場合には、もちろんその言動もふくまれるし、その人が書いたテキストもふくまれる。さらには、描いた絵、作った曲さえもふくまれるかもしれない。
 われわれの思考は通常、言語によってなされる(もちろん、音楽をつくることや絵を描くことによって考えるひともいる)。
 しかし、思考するという行為は何らかの形でアウトプットされない限り、あとにはまったく残らない。そのアウトプットのもっとも完全なかたちが、テキストをつくることである。
 一方、われわれは他人を判断する場合、その人のしゃべることを含めた行動ばかりでなく、表情、声の調子といったものからも、その人を判断する。
 また、そのひとの考えを積極的に表明している発言からばかりでなく、そのひとがいう冗談からさえも、そのひとを判断する。
 さらには、ある状況でなにもしないということからもそのひとを判断する。ある会話の輪のなかで、何も言わなかったことが発言行為以上に意味をもつことさえある。
 そのひとが、ある発言をしたとしても、それは嘘であるかもしれない。そこにあるのは、そのひとがある時点でこういうことを言ったという事実だけである。
 テキストについても同様である。そのひとが、ある時点で書いたテキストがあったとしても、それがそのひとの考えとどのような関係にあるのかは少しも明らかではない。あるのは、そういうテキストが存在するという事実だけである。
 
 テキストの題材の選び方、テキストが示す表情、テキストの声の調子などを判断することよって、それを書いたひととテキストの関係が明らかにできるとする立場がある。これを仮に小林秀雄的立場となづける。この立場をとれば、文章はそのひとそのものであり、文体は人格そのものである。 
 
 そのひととテキストの関係を明らかにするためには、そのひとがどんなひとであったかを知ることが肝要であるとする立場がある。これを伝記的立場となづける。これによれば、テキストを理解するためには、そのひとがどんなひとであったかを知ることが必要で、そのことを知ることによって、はじめて、そのひとがその文章で本当に言っていることと、そのひとの関係がわかるのである。この立場は、テキストそのもの、文体そのものだけでは、そのひとがどんなひとかを理解できないという見方を根底にもっている。
 
 小林秀雄的立場も伝記的立場も、どちらもテキストを読む目的は、テキストを書いたひとがどんなひとであるか、もっとせまく言えば、テキストを書いたひとの思想はどんなものなのか、ということにあることになる。(註:江藤淳は「作家は行動する」において、『確実なものは2+2=4で、あとの一切は「文体」の問題だ』という小林秀雄の言葉を「非行動的ニヒリズム」の精神を凝集したものとして非難した。江藤によれば、小林は思想はいったん表明されれば、作家の外の自立して存在するようになるということを否定し、思想を作家の文体あるいは表情の問題と矮小化することによって、作家の非行動を正当化したのだという。江藤は、小林は、思想→文体としたとするが、わたくしは、ここでは小林は、文体→思想としたとしている)

 これに対し、それを書いたひとがどんなひとであるのかとか、それを書いたひとの思想は?という問うこと自体に意味をみとめない立場がある。検討すべきはテキストそのものであって、その作者の思想などはどうでもいい。そのテキストでそのひとが本当のことを言っていようと嘘をいっていようと関係はなく、そのテキストがあらわす内容だけが問われるべきものである。これをテキスト至上主義となづける。
 この立場では、文体=人格論が成立する余地はない。文体が問われることがあるとすれば、そのテキストのあらわすものとの関係においてだけである。(しかし、作者のいない文体とは?)
 
 そもそも、なぜ作者の思想に興味をもつひとがいるのだろうか? 作者ぬきの思想だけに興味をもつのでは、なぜいけないのだろう?
 
 作者への興味という現象は、西洋に偏してみられる現象なのではないだろうか? ベートーベン、ゲーテダ・ヴィンチといった、作品よりも作った人間のほうが大きい文明は西洋だけなのではないだろうか? だが、西洋はそこから懸命に抜け出ようとしているにもかかわらず、日本がそれを受け継いで、愚直にその道をそのまま歩んでいるということはないだろうか?

 西洋がつくった最大の思想は「個人」という思想であって、われわれはそれにより「個人」に興味をもつようになったがゆえに、作者にも作者の思想にも関心をもつようになったのではないだろうか? そして西洋が「個人」の重さに喘ぐようになったころに、日本では、「個人」であることがようやく求められるようになっているのだろうか?

 小説というのが近代ヨーロッパの形式であるのは、小説の成立と「個人」の成立が密接に関連しているからなのではないだろうか? 
 われわれがアフガニスタンに本当のところ、興味がもてないできたのは、そこにまだ「個人」がなく、小説が成立する余地がない世界だからではないだろうか? われわれがアフリカに多くの興味がもてないのも、同じ理由からではないだろうか?

 「この物語はひどい貧乏人には用がない。こうした連中はお話にならないので、問題にするのは統計学者か詩人くらいのものだ。この物語が問題にするのは一応の身分の人々、またはやむをえずそういうふりをしている人々である。」(フォースター「ハワーズ・エンド」)
 
 ここでフォースターがいっている「一応の身分の人々、またはやむをえずそういうふりをしている人々」というのが「個人」なのではないだろうか? 
 この個人は集団と対立するものとしての個人ではない。吉田健一が「ヨウロツパの世紀末」でいう、ヨーロッパをギリシャ・ローマと区別する「暗さ」「影」「うしろめたさ」、そういうものをもった個人であり、そういう「個人」はヨーロッパにしか生まれなかった。
 個人は文明のあるところ、すなわち余剰(過剰)のあるところ、余裕のあるところ、つまりは都市からしか生まれない。また、キリスト教は「うしろめたい人間」をつくった。
 
 「うしろめたい文明人」が「個人」なのである。ニーチェは、あるいはロレンスは「うしろめたい文明人」をつくりだしたキリスト教文明を非難した(ヘブライズムからヘレニズムへの回帰)。しかしロレンスは本当にヘレニズムに回帰したのか、それともプロテスタンティズムからカソリックへ帰っただけか? カソリシズムにはヘブライズムの要素があるのか? T.S.エリオットの回心の意味は?
 
 「うしろめたい文明人」は「うしろめたい」と「文明人」の二つの要素に分解される。
 もしも「うしろめたい文明人」が克服されるべきものであるとするならば、それを克服する方向としては、「うしろめたい」(=原罪意識)を否定していく方向と、文明人を否定していく方向がある。「うしろめたい」を否定する方向の代表がニーチェである。「文明人」を否定する方向がたとえば文化人類学であり、さらには「人間」を否定するものとしての構造主義である。
 そして、ニーチェも、文化人類学も、構造主義も、すべてヨーロッパのなかから生まれてきたのは、それが「ヨーロッパの病」に対する処方箋であったからである。
 
 われわれは、「一応の身分の人々、またはやむをえずそういうふりをしている人々」になってしまった。問題はすべてそこから発する。「本当のことをいおうか」という谷川俊太郎の詩の一節は、ふりをしているひとの言葉である。「ひどい貧乏人」には関係しない。
 
 西洋の「個人」(作家)が<侵すことのできない私的生活の権利>をまもるために「仮面紳士」となったのに対し、日本の「個人」(作家)は<侵すことのできない私的生活の権利>をまもるために「逃亡奴隷」になったのだ、と伊藤整はいう。これが、さらに問題を複雑にしている。
 社会のなかで「仮面」をかぶって生きることを強要される社会と、社会からドロップして、社会の規範を無視して生きることも、一つの生きかたとしてまだ許容される余地のある社会では、小説というものもまた違ってくる。
  
 そもそも、われわれはなぜ文章を残そうとしたりするのだろうか? ヴァレリーによれば<弱さから>。(ヴァレリーのいうのは、詩であり、散文であって、小説というダルな形式は認めなかったけれども)
 
 われわれはモータルな存在であり、一方、文章は<不死>でありうる。人類が滅びたあとでも、もし地球が残っていれば、シェークスピアに感動する宇宙人が、あらわれるかもしれない。あるいは、地球が滅びても、地球外にシェークスピアの作品を発信しておけば、それを受信して理解する地球外の知的存在があるかもしれない・・・。
 ドーキンスのいう「ミーム」、ポパーのいう「世界3」・・・。
 
 クンデラは、ポパーにも通じる西欧的価値観の信奉者なのである。


(2006年3月12日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 


小説の精神 (叢書・ウニベルシタス)

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