ミラン・クンデラ「小説の精神」(1)
[法政大学出版局 1990年4月27日初版]
第一部「セルバンテスの不評を買った遺産」
三浦雅士の「青春の終焉」における、ヨーロッパ近代と小説の関係についての議論を読んでいて、クンデラの「小説の精神」を読み返してみたくなった。
第一部の「セルバンテスの不評を買った遺産」は、1935年の有名な(悪名高い?)フッサールの「ヨーロッパの危機」についての講演からはじまっている。フッサールは、ヨーロッパの危機を、近代の黎明期におけるガレリイとデカルトのうちに見ている。この二人は世界を技術的ないし数学的にみることをはじめたことにより、フッサールのいう<生活世界>を学問の領域から排除した。そして学問の世界が細分化され専門化されて進むうちに、世界の総体と人間自身は、ハイデガーがいう<存在忘却>の中に落ち込んでいった。
クンデラは、ガレリイとデカルトは<近代の両義性>を、すなわち近代が堕落でもあれば進歩でもあることを明らかにしたのだという。そして、近代を確立したのはデカルトだけではなくセルバンテスでもあるという。
たしかに学問は人間の存在を忘却したかもしれないが、セルバンテスとともにヨーロッパの偉大な芸術がはじまったのであり、その芸術がしようとしたことは<存在忘却>の探求以外のなにものでもなく、<生の世界>を<存在忘却>からまもるためのものであったという。
また、小説はヨーロッパの産物であるという。
神が至高の地位から段々と退いていくにつれて、神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的な真理に解体される。こうして近代世界が誕生する。セルバンテスは唯一の確実性としての不確実性という知恵を示したのだ。これは宗教やイデオロギーの絶対の正しさに対抗するものである。これがヨーロッパの生み出したもっとも美しい幻影の一つである<個人のかけがえのない唯一性>という幻影を生み出した。
しかし、時代が進むにつれて、外部が大きくなってくる。人間がおのれの魂の怪物とのみ戦えばよかった時代は過ぎ、ジョイスやプルーストの時代は去った。かわって、カフカ、ハシェク、ムジール、ブロッホの時代となり、怪物は外部からやってくるようになった。
小説の精神は全体主義とは両立しない。それと完全に敵対するものである。
したがって、時代精神が変わったのだとすると、小説は時代精神とともに平和裏に生きてゆくことはできず、世界の動きに抗していかなくてはいけない。これが小説がアバンギャルドの精神とはまったく異なる理由である。アバンギャルドはいかに奇矯にみえても、時代を先取りしているという自負にその存在基盤をおいている。しかし、小説は時代を先取りするのではなく、それに抗することに存在意義をもつのである。
以上のクンデラの説を読んで感じるのは、日本では小説はいまだに、<おのれの魂の怪物>のみを扱おうとしているのではないかということである。あるいは<外部>に対しては<政治>で対抗し、それとは別に<おのれの魂の怪物>を描くとか。
日本にはまだ、<カフカ、ハシェク、ムジール、ブロッホの時代>はきていないのだろうか?
日本の軍国主義の時代は<カフカ、ハシェク、ムジール、ブロッホの時代>ではなかったといえるのだろうか?
もしもそれが<カフカ、ハシェク、ムジール、ブロッホの時代>であったのなら、「細雪」が最大の抵抗であったということもいえるのかも知れない。それは<カフカ、ハシェク、ムジール、ブロッホ>の文学とはあまりのも異質なものではあるが・・・。
ショスタコービッチの音楽は明らかに<カフカ、ハシェク、ムジール、ブロッホの時代>の音楽である。
それでは、たとえば、三島由紀夫の文学はどういう位置にあるのか?
(2006年3月12日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
- 作者: ミランクンデラ,金井裕,浅野敏夫
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