E・ウォー 吉田健一訳「ブライズヘッドふたたび」みたび

 
 「みたび」というのはこの小説についてここで書くのが三度目ということである。
 竹内靖雄氏はこの小説を評して「『若きウエルテルの悩み』などを読んだあとでこのイーヴリン・ウォーの『ブライズヘッドふたたび』を読めば、二百年足らずの間に、文学の世界でも、馬車が走っていた時代と人工衛星が飛んでいる時代ぼどの差があることがわかり、人間について書くのにこれだけの進歩があったことを感じないわけにはいかない」といっている。(「世界名作の経済倫理学」)
 わたくしは高校一年のころ、『若きウエルテルの悩み』を読んだすぐあとに大江健三郎の『われらの時代』を読み、これはいかんと思って文学方面への志望をやめた人間である。もちろん、大江の作がとんでもないと思ったのである。つまり、竹内氏の説とは逆に文学は頽落する一方だと思ったのである。志望を変えたことを少しも後悔してはいないが、『われらの時代』のかわりに『ブラウズヘッド・・』を読んでいたらばという気がしないでもない(高校生の頃には、まだ翻訳されていなかったのであるから、そんなことを考えても仕方がないのだが)。
 しかし『ブライズヘッド・・』を高校生が読むわけはないので(小野寺健氏は「私の好きなイギリス小説」で「(この小説を)読んでいるときは至福の時だと言った若い友人がいる」と書いているから(「イギリス的人生」)、そういう早熟な人もいるのかもしれないが)、竹内氏がいっているのは『ウエルテル』は高校生でも読める作品だが、『ブライズヘッド・・』はそうではないぞということである。いうまでもなく『われらの時代』は高校生が読んでもひどいものだとわかる作品である。
 新潮社の「吉田健一集成7」に付された月報に池澤夏樹氏の「小説からの逸脱」という文がある。そこで池澤氏は「架空の人物を創造して、彼らにさまざまな体験をさせ、その体験を通じて思想を表現する。これが作者の視点から見た小説の原理である。読者の方は登場人物の運命に共感したりはらはらしたり、とりあえずはプロットの力で先へ先へと進んで、最後には作者の思想を理解するに到る。実に明快な装置だと思うが、吉田健一はその効能を認めない」と書いて、「書架記」のなかの「パルマの僧院」の章の冒頭の吉田氏の小説否定論を紹介する。そこで否定されている小説がドストエフスキーやジイドのものであり、例外的に肯定されているのが「パルマの僧院」であり「ブライズヘッドふたたび」であることを言って、吉田氏の奇異な小説観を検討している。
 大変失礼な言い方だが、池澤氏はなんとなく信用できないようなところのあるひとで(一昔前の進歩的文化人をイメージさせるところがある。髭も生やしているし^^))、ここで言われている小説観というのも納得できない。小説というのは作者の思想を盛る容器なのだろうか? 思想を述べたいのなら、それを直接論文として書いたほうがはるかに直接的であり、小説を書くなどというのは迂遠な話なのではないだろうか? 「最後には作者の思想を理解するに到る」などということになったのでは読者は作者の奴隷であって、読者としてこんなに業腹なことはない。あらゆるテキストは作者が思ったのとは違う読まれ方をする可能性が開けているから豊かなのであって、もしも小説という形式に何がしかの利点があるとすれば、違った読まれかたができる余地がほかの散文形式よりもずっと大きいということにあるのではないだろうか?
 それよりも何よりも、小説というのが池澤氏のいうようなものであるならば、ミステリとか娯楽の読み物としての小説というのはどうなってしまうのだろう。要するに、池澤氏は純文学といわれる方面の作を買い被り過ぎていると思う。
 吉田氏が英語で書いた文を集めた「Japan is a circle 」を幾野宏氏が訳した「まろやかな日本」という本があり、そこに「なぜコックにつらくあたるのか」という奇妙なタイトルの文が収められている。そこで(翻訳文上の)吉田氏は、「今世紀、つまりわれわれが生きている時代に、宗教のみならず、ほとんどあらゆることがらをまじめに扱うのが当然とされている」ということをいっている。池澤氏は文学作品のとても優れた読み手であると思うのだが、同時に(あるいはそれにもかかわらず)まじめな人なのである。
 ところで幾野訳の吉田氏は「かつて小説というものが慰みや暇つぶしのために読むものだった」ということを指摘する。その一方でまた吉田氏は「啓蒙時代とは、ポーが彼以前の文学の大部分を、そのひとことでもって十把ひとからげにかたずけてしまった、おそるべき言葉である。批評家は大衆の趣味を向上させようと努め、小説家と詩人は何がしかの道徳観を人々に注ぎ込もう努めていた未開の時代には、文学はそんな風に文学以外のもの、実証主義とか倫理とかいったものに第一の場所をゆずり、そのおかげで、ポーが教えてくれたように、説教か政治演説の水準にまで堕落したのだった」ともいう。
 そしてさらにD・H・ロレンスを例にひいて、「チャタレー夫人の恋人」でロレンスが、「最後に勝利を獲得する善は何か、唾棄すべき悪は何かということに関する自分の考えを、ストーリー全体を通じて主張し続けている」として、そのどこが、善が奨励され、悪が威圧されることになっていたポーが否定した古い啓蒙的な小説と違うのかと問う。
 「世界文学リミックス」で、池澤版世界文学全集に収載されたフォースターの「ハワーズ・エンド」に関連して、氏は、同じフォスターの「インドへの道」、ウォーの「ブライズヘッドふたたび」、ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」、グレアム・グリーンの「情事の終わり」を論ずる。これらが同時期のイギリスの小説であるということなのだと思うが、異文化の人間が相互に理解しあえるかというテーマ、自分自身の青春の時代の肯定というテーマ、性の問題、カトリックの神の問題という観点からも論じている。つまり文学の外にある問題を論じる手段としても小説をみている。「登場人物の運命に共感したりはらはらしたり」させるのも、「プロットの力で先へ先へと進んで」読者をひっぱっていくのも、「最後には作者の思想を」読者に理解させるための手段なのであって、それ自体が目的とはしていない。しかし、「コックにつらく」で吉田氏がいうには、「(ロレンスが)小説という形式を主な媒介物として選んだのは、そうするのが当時の文学的流行だったのと、それが一番金になったからではないか」ということでもある。
 小説は、詩や論文を書くのにくらべて多くの読者を期待できるのである。そして、とにかくも小説といった形式のもの、慰みや暇つぶしのための作品、たとえばミステリのようなものが書かれ読まれるということの前提は、社会が安定しており、それにより、合理的な思考がいきわたっているということである。たくさんの人々が次々に死んでいくという時代にはミステリなどというものが書かれ読まれることは期待できない。また人が壁を通り抜けることができると信じられているのであれば、密室殺人などという遊び自体が成立しない。
 さて、この「ブライズヘッドふたたび」は、第二次世界大戦中の荒廃したイギリスで、かつての豊かで優雅であった時代のイギリスを回顧するという話である。吉田版にはなくて、小野寺健訳の「回想のブライズヘッド」には収められている「作者序文」によれば、ウォーは1943年にパラシュート降下にさいして負傷して軍務を離れた時に、周囲に現実としてある「貧困と目前の災難の不安につつまれた、寒々とした時代 − 大豆と、乏しい語彙しかない、まるで語彙を制限した簡易英語の時代」をみて、わずか前まではあった「食べ物や酒、華やかな生活、凝った美しい言語表現などへの貪婪な欲望」がこの小説全体に浸透することになったといっている。そしてウォーも認めているように、これは「神の恩寵の働き」という主題をもつ作品でもあるわけであるが、簡易英語の時代には「神の恩寵の働き」もなかなか現前してこないのではないかと思う。「貧困と目前の災難の不安につつまれた、寒々とした時代」にあるドイツの爆撃に夜毎さらされているロンドンを舞台にした小説にボウエンの「日ざかり」がある。だからもちろん優雅と余裕の時代を舞台にしないと小説が書けないということではないのだが、「日ざかり」を読んで、至福の時と感じるというようなことはあまりないのではないかと思う。
 同じウォーの「黒いいたずら」の訳者としての解説で、吉田氏はこれと同じ題材を日本の小説家が扱ったならば、その結果がこれとはどんなに違った代物になったことだろうかということを言っている。「この小説には白人のほかに黒人、アラビア人、インド人などが出てくる。当然、日本の小説家らなば、そこで人種差別などの問題を持ち出して、そのために登場人物は白人とか、黒人という幾つかの抽象的な観念になり、何かもっともらしい名まえを人物につけても、抽象が抽象にぶつかって抽象に終わっている事情に変わりはないことになるに違いない。・・この小説には、何々というものは、ということがない。それは先入主が働いていないということと同じであって、・・そこに小説家の、あるいは、文章家の想像力と統計の違いがあって、・・このウォーの創造物を前にして、われわれはその生気に感じ入るばかりである。こういうのを型破りというのだろうか。しかし型にはまったものなどというのは二流、三流の小説家の頭にしかないものなのである」と言っている。この『ブライズヘッド・・』でも『日ざかり』でも登場人物はそれぞれの人間として生きている。竹内靖雄氏が「『若きウエルテルの悩み』などを読んだあとでこのイーヴリン・ウォーの『ブライズヘッドふたたび』を読めば、二百年足らずの間に、文学の世界でも、馬車が走っていた時代と人工衛星が飛んでいる時代ぼどの差があることがわかり、人間について書くのにこれだけの進歩があったことを感じないわけにはいかない」といっているのもこのことで、二百年ほどの間に人間というのが随分と複雑で随分と面白いものになったのである。『ブライズヘッド・・』に比べれば、ウエルテルやロッテ(だったか)の間の恋などは抽象的な観念に近い記号に見えてきてしまう。われわれは作者の思想ではなく、その複雑を楽しむのである。
 

ブライヅヘッドふたたび

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回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

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イギリス的人生 (ちくま文庫)

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まろやかな日本 (1978年)

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完全版 池澤夏樹の世界文学リミックス

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日ざかり (1952年)

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