竹内靖雄「正義と嫉妬の経済学」

 [講談社 1992年9月3日初版」


 新古典派というかアダム・スミス派の竹内氏の著書を読み返してみようかと思う。
 竹内氏の本はどれも大変楽しく読める。それは氏が大変な教養人・読書人であるのと、「おれが日本を運営すれば・・・」といったあぶらぎったところがなく、「人間なんて愚かなもので、いくら間違ってもまた繰り返す仕方のない存在なのだ」という十八世紀的?大人的風貌があるからなのであろう。
 この本は1992年に出版されている。このころはバブルがはじけたばかりで、日本もまだそれほど自信を失っておらず、現在のような低迷状態ではなかったわけで、そのときの議論があたっているものもあり、外れたものもあるというようなことを見ながら、読み返していくのも楽しい。
 ここでの竹内氏の立場も「経済倫理学のすすめ」(中公新書1989初版)と同じで、「感情」から「勘定」へである(こういう語呂合わせにも竹内氏の姿勢はあらわれている)。つまり、ミクロ経済学的な視点からさまざまな人間行動を見ていこうというのである。
 何が正しいかという倫理問題は「感情」的になりがちで不毛であるので、なるべく経済学的に「勘定」の問題として処理しようではないか、というのである。その背景には、倫理の問題の後ろには希少性の問題、すなわち事物は有限であるということが潜んでいるはずなのに、そのことにきづいていないから、議論がおかしくなるという見解がある。
 したがって、竹内氏は通常経済学があつかわないような問題もいろいろととりあげる。その点、氏が「経済思想の巨人たち」(新潮選書1997年初版)の最後でとりあげているベッカーに近いのかもしれない。ベッカーはミルトン・フリードマンを総師とするシカゴ学派であり、「ベッカー教授の経済学ではこう考える」(東洋経済新報社1998年初版)において、自分を、アダム・スミスやデビッド・ヒュームの弟子であると広言している。 竹内氏もそれにつならるものなのであろう。すなわち、理性の限界を自覚した自由主義者である。
 
第一章「日本型資本主義の経済倫理学
 日本の経済において、生産性が高い分野(製造業など)は政府の保護を受けていない分野であり、低い分野(農業など)は政府の手厚い保護をうけている。後者は生産性が低いから保護が必要とされているのではなく、保護に甘んじていたから生産性が低いままでとどまってしまったのである。
 日本人が長時間働き、よく貯蓄する理由は簡単には説明できない。日本人の社会的行動文法にもとづく可能性が高い。
 日本ではサプライサイド(生産者側)がいつも第一に考えられる。
 日本の大会社がつねに成長志向をもつのは、成長がつづいていないと、構成人員にポジションを確保できないからある。(←→アメリカでは、企業の膨張はしばしばコストの増大としてきらわれる。アメリカでは利潤第一である) もし成長志向をすてなければいけないのであれば、終身雇用・年功序列を捨てなければいけない。
 日本的経営と会社主義とが非常にうまくいって、会社が「共同体」となって個人をすべてのみこんでしまったため、国家の影がうすくなってしまった。つまり、多くの国において国家がおこなっている分配の問題、すなわち強者から弱者への所得に移転という問題を会社のなかで解決してしまったのである。つまり、本来国家がやるべき福祉の問題を、会社のなかで解決してしまったのである。
 (日本以外の)多くの国においては、分配の問題は、市場まかせの自由競争に委ねるか、国家が直接乗り出すかで解決しようとしている。前者がアメリカ型、後者がヨーロッパ福祉国家型である。日本の福祉は、大会社からもれた人間を保護するという方向で、主としておこなわれてきた(食管法、大店法、輸入制限などなど)。
 日本人に国家意識が薄い一番の理由はそれである。比較的国家を意識することの多い保護される立場の人間にとっても、国家は単なる利害調整機関である。公共としての国家はどこにも存在しないことになる。
 多くの日本人にとっては、会社が唯一最終の「公共的存在」であり、会社の外部は自分たちの関知しない別世界である。
 本当の公共領域がどこにも存在しないから、本来公共をあつかうはずの官庁もまた、官僚サラリーマンとなってしまい、官庁は国営の会社になってしまう。これが「省益あって国益なし」ということである。
 つまり、消費者の代表がどこにもいない。
 日本の個人は、欧米流の、自己の利益を最大限に追求する<強い個人>ではなく、不利益を最小限にとどめようとする<弱い個人>である。したがって「状況」を自明のものとして前提とし、「状況に適応」して、そこで自分になにができるか、を考えるのが日本人の生き方である。そこからイエとムラが生まれてきた。
 したがって会社が永続と成長をめざすのは当然であるということになる。
 さて最近(1992年)「新人類」というものが登場してきた。会社主義が崩壊する兆しかもしれない。そうなると、会社内で処理されていた分配の問題が表にでてくる。能力主義から生じる格差と対立が深刻な問題となるであろう。この問題は資本主義に内在する深刻な問題であり、たまたま会社主義がうまくいっていたので隠されていただけなのである。

第二章「税金の経済倫理学
 北欧福祉国家では国民負担率が70%といった国もある。
 これから(1992年以降)高齢化が進むなかで、現在の年金制度が維持できなくなることは目に見えている。これからは、老後の生活は自分で設計しなくてはいけない。基本は歳をとってもできるだけ長くはたらくことである。そのためには税金などの負担は極力少なくなければならない。
 理想の税制は、所得税、固定資産税、相続税などを廃止し、消費税と法人税のみとすることである。しかし、この制度は貧乏人の(すなわち多数者の)<金持ちからできるだけ取れ>という嫉妬心のため実現難しいであろう。しかし、税制は「個人の自立を尊重し、それを支持する」ためものであり、「自尊心の強い個人」や「ノブレス・オブリージ」の気概をもつ金持ちをつくるようなものでなければいけないはずなのである。

第三章「バブルの経済倫理学
 土地は一定であり、新しい供給が期待できないものであるから、経済が成長を続けるならば、地価が上がり続けるのは当然のことである。
 政府・中央銀行は、バブルをもたらすような政策をとるべきではないし、バブルをつぶすような政策もとるべきではない。バブルは市場で発生し、市場でつぶれるものである。それにまかせておくべきである。「正義」としてのバブル退治をやると。不況という不幸をまねく可能性がある。
 バブルは市場が「躁」状態のときにおきるが、市場は「欝」状態であるよりは、やや「躁」状態のほうがいい。
 もしも、半永久的バブルというものがあるとすれば、それは「経済成長」の持続でしかない。

第四章「日本勤勉の経済倫理学
 「新人類」の出現によって、日本にも「労働市場」ができるかもしれない。
 日本の企業や官庁のサラリーマンは、昔、幕府・諸藩に仕えていた武士にそっくりなのである。現代のサムライなのであり、日本人がよくはたらくのはサムライの倫理なのである。そこでは真面目にはたらくことではなく、真面目にはたらいていると認知されることが大事なのである。「新人類」は脱サムライであり、いよいよ日本は町人国家となっていくであろう。
 西洋では、労働自体に価値があるという見方はプロテスタントなどのみにみられるきわめて例外的なものである。大部分は労働を苦痛なものとかんがえてきた。これはいまでもアングロ・サクソ流の経済学の基礎にある考えである。プロテスタントでも、肉体労働的なものを賛美したわけではなくて、「起業」の精神を鼓舞しただけである。大部分の労働者にとっては労働は苦痛なだけであるから、それを強制するためには「失業しないための競争」をさせる必要があった。したがって「失業への不安」がなくなれば、真面目に働かなくなって当然である。
 そういう人間をこれからうまく働かせていくためには、生産性をあげるしかない。
 しかし、「新人類」でも本当に働く気がないわけではないのである。親切なマニュアルを提供したり、かれらに面白いと思われる仕事を提供できさえすれば、かれらはちゃんと働く。そういう意味で、日本人はまだまだ真面目なのである。

第五章「日本型民主主義の経済倫理学
 民主主義とは、社会主義のような「耐えがたい悪」ではない、というだけの制度である。資本主義は社会主義に勝ったのではなく、社会主義という不自然なものが自滅し、資本主義という人間の性に合ったものが残ったにすぎない。競争的な市場と金儲けのゲームが「最善の結果をもたらす」などということはありえない。
 市場でも民主主義でも、需要側がNoというものは生き残れないが、Yesというものがいいものだとは限らない。需要側にできることは供給されているもののなかから選ぶことだけである。
 それなら真に優れた有能な指導者を民主主義の体制の中でどうやって選んでいくべきかについては、なんら名案も解決もない。
 日本における民主主義とは「みんなで話し合って決めること」である。トップには権力はもたせず、責任だけはとらされる。トップとはいざというときに「腹を切って」組織をまもるための「腹切り要因」なのである。
 日本型の民主主義は「みんながことを荒立てずに仲良くやっていく」ためのものだから、改革にはむいていない。

 第六章「教育の経済倫理学
 日本の教育は「平均的に優れた凡人」をつくるための制度で、日本の工業のお家芸である、高品質でムラのない工業製品の大量生産に類似している。
 このシステムからは、強力な個人、天才型の才能、ユニークな人間、「ノブレス・オブリージ」を自覚するエリートは生まれない。
 日本の教育では、供給側に競争がない。あるのは塾などの教育産業だけである。
 教育の過程で落伍者がでるのは当然でそれを避けることはできない。必要なのはその落伍者に別のゲームの場を提供することであるのに、それをしていないのが問題なのである。
 義務教育は配給制度と同様、非常時の制度であり、その役割が終わったら廃止せねばならない。多様な教育が供給され、需要者が自由にそれらから選べるようにせねばならない。
 高校、大学と自動車教習所や英会話の学校との間に本質的な差はない。
 金がないために大学にいけないというのは、金がないから高級車を買えないというのとなんら差はない。社会は極端な不平等をいくらか是正する以上のことはできない。

 第七章「階級の経済倫理学
 学歴をめぐる競争こそが、日本で階級をつくりつつあるのではないか。
 これまでアメリカ型の「落ちこぼれ」を日本がつくらずに済んできたのは、非サラリーマンを「農工商」の弱者として保護してきたからである。

 第八章「男女関係の経済倫理学
 バダンテール(1992年)によれば、この20年間に男女関係に静かなしかし革命的な変化がおきており、数千年もの間続いてきた男女の分業と父権性があっけなく終焉をむかえようとしているのだという。これは後世からみれば、社会主義の崩壊よりも大きな変化であったことがわかるであろう。これも男女を差別しない市場の力なのではないだろうか? 今、男の取柄は過剰なまでの優しさだけになってきている。

 第十章「贈与の経済倫理学
 日本には「お賽銭型贈与」とでもいうべきものがある。盆暮れの贈り物はこれにあたる。具体的な利益を期待しているわけではなく、なにかいいことがあればめっけもの、なくても災いさえこなければ御の字という気持ちでおこうなう。
 日米関係は日本からみれば、アメリカにお賽銭をあげている感覚である。アメリカは怒らせると厄介なことになる神様さまなのである。政治をおこなっている感覚はない。
 本来政治は言葉でおこなうものである。日本人は今でも言葉で政治をするのが苦手だから、万事お金ですませようとするのである。なぜそうなるのかといえば、相手におしつけたい自分の思想とか価値観といったものがないからである。

 第十一章「消費の経済倫理学
戦前の日本人の消費にかんする唯一の美徳は「倹約」であった。それが戦後、高度成長とともに失われて、「消費」が美徳になった。これはデマンドサイドにたつケインズ主義にも合致している。戦前は修理をなりわいとする商売がたくさんあったが戦後すたれた。
 消費が美徳になったといっても、日本人の生きる目的は働くことである。消費は労働していない時間の気晴らしである。

 第十二章「摸倣の経済倫理学
 文化人類学者は文化には優劣はないという。しかし、優劣はあるのではないか? それは生物学において生存競争で生き残ってきたものと絶滅したものがいるのと同じことで、文化にも生存能力の高いものとそうでないないものがある。前者を<優れた>文化と呼んでもいいのではないか?生き残ったものが<価値>が高いことはないが、生き残る力はもつのである。
 衣食住において、一番文化の伝播力の高いのが衣である。それにくらべると食はそれぞれの国の保守性が高い。住はさらに保守性が高い。
 自分より優れたものがあるかもしれないと考えて好奇心を抱き、それを学んで吸収することが一貫した日本の姿勢であり、摸倣を通じての改良こそが日本人のオリジナリティであった。これを和魂洋才という。単語は入れるが文法は変えないという行きかたである。しかし文法まで変えなければいけないと要求されたとしたら・・・。その考えに明治以降の「新帰朝者」はとりつかれてきた。
 互いに摸倣しあってよく似たもので競争し、同じ枠の中の細部の優劣を競うのが日本流である。他人とはできるだけ違ったもので競争し、枠を破って新天地を見出そうとい欧米流である。先頭ランナーの外人の摸倣にだれか日本人が成功すると、われもわれもとそれに参入するのが日本的なやりかたである。
 摸倣とは正反対で凡人には絶対になしえないことは何かといえば、それは創造ではなく、壮大な破壊である。日本ではそのような破壊の天才がでないような安全装置が幾重にもはりめぐらさている。

 第十三章「アメリカ資本主義のビジネス・カルチャー」
 資本主義には、アメリカ型、ヨーロッパ型、日本型の3つの先進国型と、アジアの開発型資本主義の4つのタイプがある。
 アメリカ資本主義のビジネス・カルチャーはもっとも感染力が高く、ヨーロッパ型はそれに対して防衛的であり、日本型は「日本人による日本人のためのもの」であり、国際性はない。
 ここでいう資本主義とは「市場を競技場とするマネーゲーム」のことである。その観点からみれば、アメリカ資本主義ビジネススタイルはその目的によくかなっていることがわかる。
 日本人も経済的に余裕のある生活を望み、そのために真面目に働くこともいとわないが、マネーゲームに人生を賭けてそのスーパー・ヒーローになることを夢みたりはしない。日本人はまだ農民的メンタリティーから離陸していないのである。
 アメリカのビジネススタイルにおいては、ある企業が成功したなら、それは企業をひきいる個人の功績である。日本で松下幸之助が有名であってもそれは企業と込みの人馬一体である。
 個人の自己責任でおこなわれるゲームは、少数の華やかな成功者と、多数の惨めな敗残者を生み出す。これはヨーロッパの福祉型国家理念ではきらわれる。
 日本でもまた、このゲーム感覚は受け入れられない。なぜなら、競争より協調の「和」の国であり、もたれあい、甘え、ルール外のあいまいな処理といったものが日本の知恵であるからである。
 日本がモノづくりの国である限りにおいて、農民的メンタリティーは有効に働いた。しかし、ソフト・サービスが重視されるようになってくると、マネー・ゲーム感覚が広がるのを防ぐことはできなくなる。
 アメリカでは人種・教育などの格差が大きく、フェアな初期条件で競争しても結果の不平等はきわめて大きい。一方日本では、構成員が均一なのでアンフェアなゲーム下においても、かなり平等な結果がえられている。日本ではスーパーヒーローは生まれないが、「優れた凡人」が優遇されるのである。
 日本型資本主義はモノづくりにむいている資本主義なのである。そこにアメリカ的なビジネス・カルチャーのマネー・ゲームが入ってきた。それがバブルを生んだ。
 アメリカでは企業性悪説である。ルールと監視がなければ何をするかわからない存在であると考えられている。そこで企業はそうではありませんということを積極的にアッピールするために「フィランスロピー」などをおこなう。日本でのメセナなどは企業が社会にまくお賽銭である。

 第十六章「資本主義の経済倫理学
 社会主義は失敗したが、「反資本主義」のイデオロギーは依然として残っている。それは「単純素朴な、金儲けに対する反感」である。この反金儲けの思想の歴史は古く、つねに嫉妬の感情によって増幅されてきた。アリストテレス以来、利子をとって金を貸すことはつねに非難されてきた。
 そのメンタリティーが打破されたのが、重商主義の時代である。しかし、重商主義の時代にはパイは一定であるという仮定で各国がそのパイを争っていたのに対し、パイは大きくなりつつあることを指摘し、国際分業・相互依存の自由貿易・自由な政治活動の利点を説いたのがアダム・スミスであった。ここで古典的な経済学は確立したが、またそれに対する批判もつねに出続けており、マルクス主義はその最終最強版であった。
 マルクスは資本主義における不平等の是正の方法として、資本家と労働者の初期条件の違いに着目し、その初期条件をチャラにすること、すなわち私有を否定した。
 しかし、今日では結果としておきた不平等をあとから分配の修正によって補正しようという福祉国家の思想が主流となっている。ここに国家の介入の余地がでてくるが、国家がゲームの過程にまで介入してくるとゲームの活力が失われてしまう。

 資本主義にかわる経済体制はありえない。そうであるならできることは、行儀の悪い資本主義を行儀のよい資本主義にかえていくことだけである。

 以上、読んできて、10年前に書かれた本であるにもかかわらず、ほぼ現在でも妥当する点が多いことに驚かされる。あいかわらず日本は変っていない。
 竹内氏の予言であたっていないのは、労働市場の流動化についてであろう。氏は、ずっと労働市場の流動化が進行し、労働の売り手市場がこれからも続いていき、それが日本を変えてくと考えていたようであるが、今日ような極端な不況とそれにもとづく労働市場の縮小といった事態は予想していなかったようである。
 ある意味では、リストラの進行と正式職員の減少、パート労働者の増大によって流動化はおきているのだが、まったくの買い手市場となっている。
 竹内氏の予想とは違った経緯で、はやり終身雇用と年功序列は崩れようとしている。


(2006年3月19日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • 竹内靖雄氏は昔から好きである。倉橋由美子と非常に似た感触の人である。乾いていてべとつかず、感傷をきらい、孤立を好むといったところがとても似ている。このひとが日本社会の中でどう生きているのか? 不思議な感じもする。(2006年3月19日付記)

正義と嫉妬の経済学

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