[読書備忘録{竹内靖雄「「日本人らしさ」とは何か 日本人の「行動文法」を読み解く」
PHP文庫 2000年3月15日初版 「日本人の行動文法」として1995年10月に東洋経済新聞社から刊行されたものに加筆し改題したもの
行動文法は不変ではない。社会的状況が激変すれば、それに応じて意外に急速に変る、というのが前提になっている。
バブル崩壊後、日本は競争型の社会へ移行しつつある。個人主義化の傾向も強まっている。しかし、行動文法の原理は変らない。大多数の日本人は、危険をさけ、失敗を恐れ、不利益を最小化するという原理で動いている。
日本人の行動文法は日本人同士なら、それでやっていける一つの正解である。しかし、これから日本人だけではやっていけなくなるとすれば、それは正解ではなくなる。
どういう社会モデルが普遍的かという議論は意味がない。現在、進化の過程を通ってきてある種の生物が優勢であるとしたら、それが生き残ってくるに足る何かをもっているということはできる。ただそれだけのことである。現在、アングロサクソンモデルが優勢だとすれば、それが優勢になるだけの何かがあるということは認めなくてはならない。
「社会的行動の文法」は「遺伝的行動の文法」に対するものである。
法治主義の根本はルールで禁止されていないことは何をするのも自由ということである。
人治主義においては「お上」が許可したことは、してもいいということになりがちである。
あらゆる人間の共通する行動文法は「自己利益の追求」である。
しかし、行動文法は少なくとも「公共の利益」に反するものであってならない。
「自己利益の追求」がそのまま「公共の利益」につながるというアダム・スミスの「見えざる手」が正しいかどうかはわからない。正しいとしても「競争的な市場」においてだけであろう。
利益には、現実的利益と感情的利益がある。
日本人は利益を追求することよりも、不利益を避けることを優先する。あることをすることにともなうコストは通常不利益とみなされる。したがって、危険を冒して行動するよりも、何もしないで現状維持をしたほうが「無難」であると考える。
したがって、快楽を追求するより苦痛を最小化するほうを選ぶ。これはエピクロスの哲学に近い。
日本人は状況への適応を第一に考えて行動する。日本人にとって、自分と状況は一つながりである。したがって、個人は世界の中で自由に動く粒子ではなく、世界のなかに張り巡らされたネットワークの結節点としてとらえられる。
日本人は状況をあたえられたものとしてうけとり受容する。そのなかで不利益を最小化しようとするので、
1)他人とうまくやっていく、
2)他人から非難・攻撃をうけないように気を使う、
3)自分がいやなことは他人にもしない、
などを原則として行動する「受身の姿勢」がでてくる。
したがって自分からは行動にでない。状況に適合した正解は一つであると考え、その正解は自ずから現れれてくると考え、それを待つ。
したがって、日本的な改革は「なしくづし」の手法による。
また「空気」に身をまかせる。
ここから「横並び行動」が生まれる。
状況を受け入れることが著しく困難な場合には、それをないもののように見なして、問題を「先送り」する。あるいは「棚上げ」する。そうしているうちに自然に事態が好転するのを期待する。
状況適応的でなく大勢順応的でないひともいる。そういうひとは「夢」や「男のロマン」をもつ。そのことの実現よりも、「夢」の追求自体が価値をもつとされることが多い。
ある状況でどうしていいかわからないときには、大多数がしていることは不適切なことではなかろうと推定するのは、間違った判断とはいえない。そうすれば自分で考えなくても済む。ここからも「横並び」行動が生まれる。
日本人も「個人主義」者ではあるが、「弱い個人主義者」であり、自己の利益の最大化を図るような「強い個人主義者」ではない。「弱い個人主義者」は自己利益の追求において、集団を利用し、集団に依存する。→「集団主義」
日本人は相互の攻撃を回避しようとする。アダム・スミスの「共感モデル」に近いかもしれない。これは日本語では「思いやり」と呼ばれる。「思いやり」は時に「余計なお世話」にも転化する。
相互に「弱い個人」であることを自覚している日本人は、個人に対しては一定以上の責任追及はしない。
他人の攻撃を避けるために必要なのは、「自己放棄」の姿勢であり、「まごころ」「まこと」「誠意」をみせることである。
したがって、議論・討論は極力回避される。言語に頼ることが少なく、自己主張も少ない。
日本人の集団は「共同体」であるとはいえない。むしろ脱共同体志向かもしれない。
日本人がもとめる集団は、出入り自由な「開放型の集団」である。集団のなかでは市場原理は働かない。
日本人は、「まこと」を最上の価値とする。それは「誠」であり「真」であり、「信」であり「実」である。これは「私」「私心」をふくまないことである。「無私」こそが日本人の理想である。「私」という主体がないように見えること、それが日本人の理想像である。
日本人が「和」を尊重するのは、それが相互を傷つけないからである。日本人の「平和」志向も同様の理由による。
したがって、「暴力を抑止するためには暴力が必要なこともある」というディレンマを、日本人は直視しない。そういうことはないかのようにふるまう。
日本人は、「ひとなみに扱われたい」という願望がきわめて強く、「ひとなみに扱われない」ことに非常に過敏である。
日本人は「人並みでありたい」ために競争する。
日本人は絶対的で普遍的な真理が存在するか否かについては判断を保留する。
通常は何が真で何が正しいかは状況によってきまるとかんがえる。
各人の立場を超越した「客観的な真理」の存在を認めない。
日本人は基本的に人間を越える価値、権威をみとめない。
日本人は「性善説」である。「悪」は人為(制度、ルール)から生じるとする。人為を排し、自然のままであることが「善」である。人情に反するものは「悪」である。「自ずから」おきることにかんしては人間の制御はおよばず、「仕方がない」ことになる。
人間は自然のままがいい、とする見方からは禁欲主義は生まれない。しかし、金銭欲に対しては否定的になる傾向がある。
一方、欧米での「性悪説」は、それを抑制するものとしての「法」と強制力としての国家を要請する。
日本人にとって、自然は「自ずからなったもの」であり、神が創造した自然というユダヤ・キリスト教的世界観と対立する。
日本人は比較的最近までアニミズム的な自然畏怖の感情をもっていた。
日本人は世界に自分が参加しているという意識をもたない。自分のまわりで自分と無関係に変化していくと考える。天気を読むように世界情勢を読む。
日本人にとって、歴史とは川の流れである。
日本人は自分の所属する集団を超えたものとしての「公共領域」あるいはその上位にある国家というものの意識が希薄である。
日本人は江戸時代に宗教から離脱した。これは欧米に先駆けるものである。脱宗教をする前の日本はキリスト教親和的であった可能性がある。キリスト教禁止と鎖国がなければ日本はキリスト教国になっていたかもしれない。
日本人は状況がかわれば豹変することを不思議としない。→社会党村山首相。
今日の日本の会社のルーツは戦国大名の軍団である。それが江戸時代の幕府・藩の公務員サラリーマンになった。明治になって登場した企業は、江戸時代の商家のイエ組織と武家集団の官僚制が合流したものである。
日本には未だになお上意識が残っている。
鎖国は日本独特の行動様式である。
1)中国文明摂取後の遣唐使の廃止:平安の仮名、荘園制度、武家制度などの独自の動き
2)南蛮ショック後の鎖国
3)黒船ショックによる開国、昭和に入り自閉状態へ
4)敗戦ショックによる平和憲法と安保条約による擬似鎖国状態
5)再び、開国をせまられている現在
現在の日本は「母子家庭国家」である。
古代以来、日本は「半母子家庭国家」状態でいることのほうが多かった。明治から太平洋戦争までの70年間のほうが例外である。
この時代の欧米型モデルは日本には合わないということなのかもしれない。しかし日本には同時に横並び志向もあり、日本の現状が世界では異例であり、普通ではないといわれると、「普通の国家」になるべきであるかという思いもでてくる。
日本人はユダヤ人と正反対に、日本人ネットワークのなかでしか日本人でありえない。
このように読んでくると、バブル崩壊後の不良債権問題の先送りというようなことも、ことごとしく経済理論を持ち出さなくても、上に述べられているようなことですべて説明できるのかもしれない。
氏もいうように、状況が劇的に変化すれば、また日本人の行動様式も変化するのだろうか?
山本七平氏は、日本人には日本人の特性があり、それは万古不易で変らないとしているように思われる。
一方、竹内氏は変るという立場である。新しい状況の中で、不利益最小化原則から、今までとはまったく違う行動をとるようになるだろうという。ある状況になれば「空気支配」もなくなるのだろうか?
確かに「会社人間」などというのもなくなっていくかもしれない。今まで日本人の多くが会社人間であったであったのは、ギブアンドテイクで、受け取るものもまた多かったからだけであるかもしれない。昨今のリストラ時代、大企業でも明日がしれない時代においては、会社に命をかけようなどというひとはいなくなるのかもしれない。
問題は「共同体」ということである。山本七平氏あるいは小室直樹氏は、人間はなんらかの「共同体」への帰属意識がもてないと、「アノミイ」となり崩壊するという前提をもっている。竹内氏は「個人」として生きればいいではないか、「共同体」なんてなくても大丈夫という立場である。村上龍の最近の発言もそれに近いものであろう。これからは自分で生きていくしかないのだぞ、誰も頼れないぞ、個人として生きるしかないのだぞ、ということである。
おそらく、昨今の「構造改革」論議もすべてそこに繋がっているはずである。「小さな政府」「自助努力」を主張するひとは、基本的に個人が自分で生きる社会を望ましいと考えている。一方、「小さな政府」を批判するひとは、人間は一人で生きられるほど強くはないぞ、ということを発想の根底にもっているのであろう。
さらに問題は、価値として「小さい政府」が望ましいか、そうではないかということと、事実として「小さい政府」が実現可能かということがある。あるいは「小さな政府」以外の選択肢が事実の問題としてありうるかという問題である。
「大きな政府」はどこかで社会主義と結びつくのであろう。社会主義は、経済が高度に成長を続ける社会でしか実現しえない、若い社会でしか実現できない、歴史における一過性の現象、徒花だったのであろうか? だが、ある点では、老化した社会ほど「福祉」を「社会主義」を要求するようにも思える。
たとえば、「小さな政府」は、好景気のときのみ実現可能なのだというひとがある。不景気の状態においては、「国家」の出番があるというわけである。一方、社会主義も好景気のときにしか実現できないものだとしたら・・・。「小さな政府」と社会主義は対立する。結局、いいことは景気がいいときにしか実現できないという当たり前のことに帰着していまうのだろうか?
そして景気をよくするには政府がもっと動くべきであるという議論と、景気をよくするためにも規制を緩和し、民間にまかせろという相反する議論がある。
それは短期的目標と長期的目標の違いである。短期的には「大きな政府」、長期的には「小さな政府」などという意見もあるが・・・。
「小さな政府」の時代においては、いまよりもぎすぎすした世の中になることは確かのように思われる。人との争いを好まない日本人はその道を選ばないだろうか? それが状況であると達観すれば、状況に適応して、「小さな政府」においても、なるべく争いがなく、優越願望よりも対等願望が実現される方向を見つけていくのだろうか?
日本なんか滅びたって、日本人が滅びるわけではない。日本企業経営者がすべて外国人になったとしても、どうということはない。そのなかであなたがどう生きていくかだけが問題だ、と竹内氏はいうのだが・・・。
2006年7月29日 HPより移植