池上直樹 J.C.キャンベル「日本の医療 統制とバランス感覚」
中公新書 1996年8月15日初版
日本の医療経済学者とアメリカの日本の政治を研究している政治学者による日本の医療政策を論じた本であり、もともとは医療費の高騰でどうにもならなくなっているアメリカに、なぜ日本の医療が低医療費ですんでいるかを紹介する目的で書かれた本である。
(この本が書かれた1996年の時点においては、)医療費という点からみるかぎり、アメリカはどうしようもなくなっている国であり、日本はとてもうまくいっている国なのである。
日本の医療は、国民全体が医療保険に加入しており、保険証一枚あれば、あまり費用のことはきにせず、どこの医療機関にも自由にかかることができ、医師も基本的に自由に自分の思うように診療することができ、しかも世界最長寿国であり、最低の乳児死亡率という成果をあげながら医療費は世界的にみてきわめて低い水準にあるというまことに優れたパフォーマンスを実現しているわけである。
日本の医療費は1970年代においては他の国と同様に高騰していたが、1980年代には伸びが抑制されてきている。本書は主としてその点を追求している。
日本の医療政策が決まる過程
A)主役:1)厚生省・・・医療体制の統制をめざす
2)日本医師会・・・医師の裁量の自由をめざす
厚生省からみて、日本医師会は欲張り亡者の開業医の代表
日本医師会からみて、厚生省官僚は傲慢な権力亡者
厚生省は、昭和13年、陸軍の要請により内務省の一部が分離するかたちでできた。当初の仕事は医療と福祉であり、後年それに年金が加わった。
日本医師会は、大正5年の大日本医師会にルーツはさかのぼる。戦時下には翼賛体制にくみこまれたため、戦後、占領軍による民主化体制の一環として、昭和21年に日本医師会として再発足した。開業医はほぼ全員加入しているが、勤務医の加入率は相対的に低い。しかし、医師を代表する他の有力団体がないため、政府の医療政策決定においては医師会の了解なしには政策を遂行できない。昭和32年(1957年)から昭和57年(1982年)まで会長であった武見太郎時代はきわめて大きな力を発揮した。
B)支援者:
1)厚生省側:a)大蔵省・・・厚生省と対立する部分があることは間違いないが、医師会の要求に対し、これ以上金はだせないといえるという意味で、厚生省側である。関心は支出の削減。
:b)保険者・・・厚生省の味方をして、大蔵省にもっと医療費に金をまわせと主張する立場であり、両者を仲介する立場であるが、基本的に医師会と対立する。健保連の2大支持団体は、経団連と連合であり、ここでは労使の利害は一致する。健保連の主要なポストには厚生官僚が天下りしている。
2)日本医師会側:a)他の医師団体・・・これはあまり力がない。
:b)自民党・・・自民党自体には明確な医療政策がない。唯一推進した政策は国民皆保険制度だけであり、それは福祉政策によって左派からの挑戦をかわすのが目的であった。それ以外は、医師会の主張を政府に伝える仲介役に徹していた。長年、日本医師会は自民党に対する最大の献金団体であった。参院には医師会推薦候補がつねに上位当選していた。自民党にとって、医療政策は、農業や小売業者と同じ位置付けであった。
日本の保守派は医療については警戒感がない(福祉については、英国病の到来や日本の美風である家族制度を破壊するといった見地からの警戒がある)。これは、医療の社会化は自由主義の基盤をゆるがすといったアメリカ保守派の態度とは著しくことなるものである。
C)観客
1)野党:野党の主張はほとんど医療政策に反映していない。唯一の例外は昭和48年の老人医療費無料化であり、これは当時の革新自治体の躍進を背景とするものだった。野党は労働組合を代表するため、主として現役世代よりも退職した高齢者が問題になる医療政策では動きにくかった。
2)関係団体:経団連・連合なども、医療費以外の根本的な医療制度といった問題にはほとんど関心をもっていない。
3)専門家:日本ではアメリカとくらべて、医療政策の専門家はきわめて少なく、また発言力に乏しい。
4)国民:医療について、いろいろと不満はあるが「しかたがない」というスタンスである。
その競技場:中央社会保険医療協議会(中医協)
8名の診療側(5名医師、2名歯科医師、1名薬剤師)、8名の支払い側(保険者4名、労働側2名、経営側2名)、公益側4名の計20名で構成される。5名の医師代表は日本医師会の推薦による。これは一種の労使交渉のようなものであり、一見対立しているようにみえても、お互いにできること、できないことがわかってきて、交渉そのものが儀式化しやすい。したがって実際には、厚生省の実務者と医師会の担当理事の間で実質的にきまったことを追認するという要因が大きい。
日本にいては正式決定までの過程においては、自民党の政調部会と族議員の力が大きい。
医療分野の特異な点は、自民党の支持団体である日本医師会が厚生省とは対立するという点である(農業団体は農林水産省とは対立はしない)。したがって厚生省の族議員の立場は微妙である。厚生族のボスは日本医師会と厚生官僚の間の仲介者として機能してきた。
厚生省の目標は「官」として、「公衆衛生の実践」であり、日本医師会の目標は「民」として、「プロフェッションの自由」であった。
これらは一見対立しているように見えるが、当初は、アメリカに比較すると、医療に対する見解には共通していたところが大きいことがわかる。
1)財源の確保は政府の責任である。つまり、財源は「官」
2)平等な医療を優先する。→「質」より「平等」
3)そのための量的拡大が課題。
しかし、昭和40年代後半に医療の量的拡大についての課題がほぼ達成され、昭和50年代にはいって医療費の抑制の必要性が前面にでるようになってきた。「医療費の増大」と「財政赤字」の問題がでてきて、「大きな政府」への批判がでてきたためである。
その流れのなかで厚生省はシカゴ学派の流れをくむ「医療経済」イデオロギーを採用した。しかし、その根幹にある「個人の選択」と「競争原理」という思想は無視された。これに対して日本医師会は明瞭な対立理念を提示しえず、以後は、開業医の既得権をまもることを最優先するようになっていった。
厚生省の中にも旧来の「公衆衛生」派(平等)と、新しい「医療経済」派(効率)の2派の流れができることになった。これらの理念は根本的に両立しえないものであるが、医療の分野の不平等には国民の抵抗が強く、効率優先の思想は大きな勢力とはなりえていない。
これとは別に「科学主義」の立場も台頭してきている。医療の「標準化」をめざす動きである。しかし日本医師会は基本的にそれに反対している。
また[消費者主義」の動きもある。患者の人権、インフォームド・コンセントなどの動きである。
これは厚生省の「公衆衛生理念」も、医師会の「プロフェッションとしての自由」もともにパターナリズム的発想が根底になることを考えると、それに対立するものでありうる。しかし、これを本当に追求していくと、コスト面を問題にせざるとえなくなり、医療の不平等を容認する方向も議論せざるをえなくなるが、その点については、みな問題点から目をそらしている。
国民がもとめているものは「献身的サービス」であるように思われる。これは全能な医師や官僚への期待でもあり、医師と患者が対等な立場に立ち自らの責任で最適を求めるという「消費者主義」とは根本的に相容れないもののように思われる。日本人は今でも「家父長主義」から抜けられていないのではないか?
日本の医療制度は江戸時代からの流れのうえに成立している。当時は医師であることはだれにでも許されていた。欧米と異なる点は、病院の原型となりうる病弱者や貧窮者を収容する施設がほとんど公によっては開設されなかったということがある。
明治15年に西洋医学を学んだものにのみ医師免許があたえられるようになったが、漢方医などもそのまま医業は許可され、江戸時代からの開業医制度の根幹がそのまま残った。
病院も医学校に付属するもの、陸海軍のもの、自治体で設立されたものもあったが、多くは開業医が開設したものであった。
敗戦後、占領軍により医療のアメリカ化が試みられたが、大学の医局講座制は温存され、インターン制度はうまく機能せず、医薬分業も進まなかった。その結果、江戸時代以降の自由開業制度が基本的にそのまま残った。それが日本医師会の力の源泉になった。
昭和58年(1983年)の老人保健法で老人保健の自己負担分を国が支払う形から、保険者が7割、国が2割、自治体が1割を負担する形になった。
昭和59年(1984年)には、退職者保険制度ができた。これにも一部被用者保険から拠出されることになった。
また昭和59年から保険本人も自己負担が「なし」から1割になった。
しかし、これらの微調整だけは急速に進行する高齢化時代に対応できない(65歳以上の人口が、1960年6%、1990年12%、2025年25%)。
そのため介護保険が構想された。これは医療保険が「短期ケア」保険であるのに対して、「長期ケア」保険であるといえる。
「医療費の抑制」
医療費は原則それまでの医療支出を改定で保障するかたちでおこなわれていた。
医療需要が自然に増加していくような状況においては、医療機関の収入は自然に増えていく。昭和56年(1981年)以降は、そのような「自然増」は引いて改定が行われるようになった。これが医療費抑制に最大の効果をもった。
医療費は、5割が保険料、3割が国・自治体からの一般財源、残りが自己負担。
一般財源部分は、予算に計上する必要がある(ほぼ国防費と同額)。これは大部分、政府管掌健保と国保の助成にあてれらる。
昭和40年代は、革新自治体の誕生などが医師会に追い風となった。その状況下で昭和48年(1973年)に、いわゆる「スライド方式」がつくられた。医師の技術料はGNPに、他の職種の人件費は勤労者の賃金水準に、物件費は消費者物価に比例させる、というものである。
昭和55年(1980年)からは、予算にシーリング方式が導入され、それにともない56年から「自然増」を引く方式ができた。それでも抑制が不十分であったので老人保健法ができた。
この本は今から5年以上前に書かれているが、低成長・デフレ時代になって、当初から予想されていた高齢少子化による医療保険制度の破綻が想定以上の速度で現実のものとなろうとしている。「自然増」をマイナスするという程度ではまったく追いつかなくなってきている。
そして、この本にも書かれているように、国民は基本的に医療制度には大きな関心がなく、与党・野党ともに明確な医療政策ビジョンをもっていないとすると、すべての関心は医療費の増加をどう抑えるかという点にのみ集まってしまうかもしれない。そうすると医療レベルの切り下げか、自由診療の増加という方向しかなくなっていまうように思える。
つまり、現在の医療でも本当は国民は過剰であると感じていて、医療費が安いから利用していたが、もし医療費が高くなるなら利用しなくてもいい、という程度のものであるとしているのだろうかということである。どうなのだろうか?
医療は絶対必須で国民に平等に与えられるべきとされてきているが、それはタテマエであり、ホンネではそう思っていないのだろうか?
日本人はきわめて平等志向が強いように思われるが、状況が変れば、それも変化するのだろうか?
2006年7月29日 HPより移植