加藤典洋「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」

  クレイン 2002年5月9日初版


 雑文集。
 まずマフマルバフの「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」への感想からはじまる。そして、このマフマルバフの文が、なぜ多くの「左翼」的な世界観がアメリカを批判する「正しい」文が彼にあたえる違和感を、あたえることがないのかと問う。
 そしてもう一つサルマン・ラシュディの文も紹介する。「(9・11のテロリストたちは)言論の自由に反対し、多党制の政治システムに反対し、成人による普通選挙に反対し、政府のアカウンタビリティに反対し、ユダヤ人、ホモセクシャル、女性の権利に反対し」、「社会的多元性に、世俗主義に、ミニスカートに、ダンス・パーティに、髭を剃る自由に、進化論に、セックスに」反対するが、ラシュディは「ミニスカート、ダンス・パーティをふくめたこれらすべてのために、命を賭ける」という。さらに彼はいう。「安逸な日常生活」「ぬるま湯につかった平和」これらすべてが大切なのだ、そういう普通の生活にあるものにこそ、原理主義者たちに対し、命を賭けても守るに値する、わたしたちの自由なのだ、と。
 ここで加藤は日常生活の確かさのようなものを「一階部分」と名づける。一方世界の無意味さを露呈する現実をみる実存主義的立場は「地下室部分」と名づけられる。そしてそれらの上に構築される思想が「2階部分」になる。
 「左翼思想」とは、「地下室」から「二階」へと飛躍する(これを「革命」とよぶ)。マフマルバフは「地下室」ではなく、「一階」で語っている。
 大義としての自由は「二階」にある。
 日常生活の中の自由は「一階」にある。
 イスラム原理主義は「地下室→ニ階」の論理である。それに対抗するためには「一階部分」の知恵が必要となる。
 内在(自分の思考)−地下室
 関係(構築される思想)−二階
 ビン・ラディンにもブッシュにも一階部分がみえていないのである。

 かって選良がもっていた誇りは、お金では買えないほど高いものであった。かれらは貧しくてもそれで生きていけた。今、その誇りの価値が下落した。だから彼らは、金をもとめ、金で買えるものをもとめるようになったのである。
 かって村上龍はポップな感じというのはある程度社会が豊かにならないとでてこないといった。うまいものを食べたい、いい女とやりたい、素敵な服をきたい・・・。
 お金で買えないものは超越的なものである。敗戦後の日本は貧しく、超越的なものを必要とする以前に生活で手一杯だった。村上龍によれば、やがて豊かになった日本人は金で超越的なものを買おうとしたのである。しかし、たとえば、恋愛はお金では買えない。

 マルクスは市場には限界があると考えた。それは人の必要には一定の限界があるからである。しかし資本主義はそれをマルクスが想像もしなかったようなやりかたでのりこえた。必要を欲望に変えたのである。必要は一定の限界をもつが欲望には限界がない。
 現在買い控えがおきているといわれている。これはバブルの丁度裏返しなのであるが、現在の国民は投票権を行使するのよりも、消費行動の抑制という行動によって、より大きく政治を動かせるようになってきている。
 国民は投票において明確な意思は示さない。しかし消費において気分を示すのである。これはとんでもなく大きな政治的な力なのであるが、国民はいまだ無意識であって、その力には十分には気づいていない。

 日本には、いまだに公共的な社会が成立していない。徒党だけあって社会がない。あるのは、省益、社益、地域益などなどだけなのである。だからルソーのいう「一般意思」が存在しない。あるのは「共同意思」あるいは特殊意思ばかりである。

 「世界なんて破滅したってぼくがいつもお茶を飲めればそれでいいのさ!」ドスエフスキー「地下室の手記

 「補完性の原理」・・・より大きな集団は、より小さな集団が(最終的には個人)が自ら目的を達成できるときには介入してはならない。また、より大きな集団は、より小さな集団が(最終的には個人)が自ら目的を達成できないときには介入しなければならない。これがEUを運営する根本の原理であるという。
 これは「やくざの原理」と対抗する。「やくざの原理」では、一つの共同体が高次の共同体に対しては服従義務を、低次の共同体に対しては支配権利をもつ。

 ドストエフスキーはルソーの西欧社会に悪態をついた。しかし、ルソーがいなければ、ドストエフスキーもまたいないのである。

 戦後派(第一次)=近代文学周辺:平野謙 埴谷雄高 荒正人 佐々木基一 丸山真男
 戦後派(第二次)=マチネ・ポエチック周辺:中村真一郎 福永武彦 加藤周一
 戦中派:安岡章太郎 橋川文三 鶴見俊輔 吉田満 司馬遼太郎 吉本隆明 三島由紀夫
 戦後派(安保世代):石原慎太郎 江藤淳 大江健三郎

 戦後派が最初にあり、戦中派はそのあとから生まれた、と加藤はいう。そして、自分を形成したのは「戦中派」の書いたものを読むことでではなかったかという。

 明治政府は不平等条約を正すのに40年の歳月を要した。しかし、戦後の政治家は戦後憲法をそのような正すべき課題であるとは考えてこなかった。
 戦後の日本は与えられた現実のなかで考えるのではなく、白紙から理想状態を考えるという発想ができなくなっている。高度成長が終わった時点で日本はそういうことを考えなければいけない事態になっていたのだが・・・。
 「経済」とは何か足りないものを埋める作業である。凹面を平にする作業である。
 「政治」とは平なところに何かを積んでゆく作業である。平面を凸面に変えてゆく作業である。
 日本では「忠臣蔵シンドローム」(加藤周一)がある。誰かがある目標が定めれば、それにむかってとことんみんなで頑張る。しかし、設定された目標を途中で再検討するということがきわめて苦手である。ところが政治というのは、目標の再設定ということなのである。

 「パトス」・・・内に充ちるもの
 「エトス」・・・外に満ちているもの

 「文明」・・・いろいろな違う人間がそこに集まって違う人間のまま一緒にいられる空間の器のこと。
 「文化」・・・普遍的な「文明」に対して、個別のもの、独自のもの。

 ウエストファリア条約(1648年):何が正しいか、どちらが正しいか、何が本当か、それは括弧にいれて、とにかく殺し合いをやめる。最低、相手の考えている「真」は尊重する。互いに国家の主権は侵さない。何が[真」であるかは問わずに共同して生きてゆく、そういう精神。
 「真」・・・普遍性
 「善」・・・共同性
 薩長明治維新において、「尊王攘夷」という「真」を唱えて、英国などに敗れ、「正しい」ということを括弧に入れて、「生き延びる」という道を選んだ。水戸は闘うことなく、「正しい」道を突き進んだ。
 ここには「内在」と「関係」の分裂があるのだが、それに耐えた明治人は福沢諭吉くらいである・・・「痩我慢の説」。

 あと、非常に示唆に富む村上春樹「神のこどもたちはみな踊る」論など。

 ここで述べられている加藤氏の改憲論は、おそらく政治家はまったく一顧だにしないだろう点において、典型的な文学者の政治論であり、有効性ゼロであると思われるが(氏の「敗戦後論」は文学者の間だけで話題になったのであって、政治家の間では一切関心をもたれなかったものと思われる)、政治論としてではなく文学論としてみれば、つまりドストエフスキーの徒としてみれば、とても面白い。ドスト氏も散々政治論を唱えたが、今は誰もがそれを文学論として読んでいるものと思われる。
 自分もまた「戦中派」に決定的に影響を受けていて、「近代文学」も「メチネ・ポエティック」も「安保世代」も、どうも肌に合わないところがある。
 全共闘派世代=戦中派論というのは考えてみるべき価値のあるテーマであろう。


2006年7月29日 HPより移植