長谷川宏「丸山真男をどう読むか」

  講談社現代新書 2001年5月20日初版


 丸山真男は知的世界の住人であった。知的世界においてならば自分と異質な人間とも<普遍的>な対応ができたひとであった。
 一方、丸山真男は終生、軍隊体験に違和感を持ち続けた。そこにおける自分と異質な人間とは<普遍的>な対応ができなかったのである。
 しかし、軍隊で出会ったものたちこそが、「大衆」あるいは「国民」ではなかったのか?
 たしかに、知的社会に住むと民衆の世界から切断されてしまう、それが日本の近代が生んだ社会構造なのである。知的世界に長く暮らしていると、知識人と大衆という捉え方が固定化してしまう。

 明治の近代化は上からの近代化であるといわれる。それならば、戦後の民主化もまた上からのものではなかったか?
 昭和ファシズム期においては、体制に異質なものを一貫して排除し続けることによって、あらゆる価値を、空間的・時間的に一点に集約している場が存在することになった。
 そこにいるひとすべてにとっては、その場の流れに身を委ねることが、すなわちそこに参加することであり、流れに身を委ねることは受身な行為であるために、そこでおきる事態に責任が生じないことになる。敗戦においていわれた国体の護持というのは、そういう価値を集約した場の維持ということなのであった。
 日本と異なりナチスには独裁者がいた。それならば、それは自由な主体の存在という伝統があったからこそ生じたものなのであろうか?

 日本では、明治以来、知が個人の主体性と自立のためではなく、社会を上下にわけ、その階層のどこかに個人を位置づけるものとして用いられてきた。
そのような歴史の中で、 丸山真男がもっとも親近感をもったのが福沢諭吉であった。
 福沢諭吉は、日本の気風を「権力の偏重」にあると見た。それは上を重んじ下を軽んじるといい権力のありかたであるが、福沢は男女、親子、師弟、富貴貧困、新参古参、本家末家、大藩小藩、本山末寺など、日本のすべてにそれをみた。そこでは、大は小より偉いという感覚が生じる。したがって、権力はある個人に生じるのではなく、関係の中で生じ場で生じることになる。
 したがって、日本は自分のいる場を大きくすることに自動的に価値がおかれてしまうのである。
 そういう点を考えるならば、日本では物質面での近代化は進んでいても、精神面ではとてもそうとはいえない。それを如実に示すのが、たとえば、明六社である。
 明六社は実質わずか1年で解散してしまった。その会員の多くが体制への帰順に抵抗をもたなかったためである。世俗の権威や権力と異なるものに権威をもとめるという発想がなかった。西欧においては世俗の権威と神の権威はまったく別のものであると発想された。しかし日本では内村鑑三でさえ、抵抗権という発想をもてなかった。
 板垣退助自由党伊藤博文に譲り渡したという醜態は、明治の自由民権運動の精神の弱さを象徴している。自由民権をつらぬくことより、組織を拡大することが重要視されたのである。
 この上昇志向に乗れない、あるいは乗らない脱落者もいた。その心情を汲み上げたのが文学である。しかし丸山真男は、これら文学者が政治から目をそむけたということを理由に、文学者たちを否定的にみた。丸山はいやしくも知識人であるならば政治に関心をもつべきであると考えたのである。
 しかし、個の自由と自立は、日本では、かろうじて文学の中で変形した形ではあっても生き延びたのである。それを非難することができるのだろうか?

 荻生徂徠は公と私をわけた。私的領域は儒教的な道徳の範囲外であるとされた。それは本居宣長国学につながるものであった。
 日本においては仏教・儒教など外来のものが思想を規定した。その中で、鎌倉武士がつくりあげた武士のエートスは例外的に外来思想の影響をうけない土着のものである。
 <部門の誉れ>という考えには、個人の自立をささえるものであるプライドの萌芽がみられる。
 さて、丸山真男はユーモアの感覚の乏しいひとであった。これが氏の思想を硬直させるものとなった。丸山が心酔した福沢諭吉はユーモア感覚にあふれたひとであったのに。福沢には春風駘蕩たる生活人の側面があった。丸山にはそれがない。

 以上、基本的に吉本隆明の丸山批判に通じる視点であるように思われる。
 軍隊体験、あるいは軍国主義への違和感というものであれば、吉行淳之介のような方向もある。
 それはむしろ明治以来の伝統である個人の自立は文学の中でのみ実現されるという方向のバリエーションである。まさに政治からの逃走としての文学。
 日本において、自立した個人であることが、社会からのドロップアウトという代償をともなうことなく実現できるかというのは、おそらく未だ解決されていない問題である。伊藤整のいう逃亡奴隷と仮面紳士の問題である。
 そういうなかで、日本で「権力の偏重」にはようやく陰りがみえてきているのだろうか? 個人の自立が社会からの逃亡ではなく実現できる方向が、ようやくみえてきているのだろうか?


2006年7月29日 HPより移植