新野哲也 「大人になるための思想入門]

   新潮選書 2002年 7月20日初版


 本屋で偶然みつけた。著者についてはまったく知るところがないが、西部邁の友達でもあるらしい。なんとなくそんな感じのするところもある本である。思想入門というタイトルになっているが、どちらかというと、思想入門というより生き方指南といった感じの本である。
 近代のなかでの反近代の主張、職人の生き方の称揚といった趣がある。
 西田哲学とか九鬼周造とか和辻哲郎とか禅とかもでてくる。ニーチェハイデガーフッサールなんていうのもでてくるけれども、基本は反西欧、あるいは反西欧的近代、東洋の叡智の賞賛。
 世界を関係の構図としてみる見方が間違いなのであるという。「関係が実体に先行する」という見方では、人間は関係の網の目にひっかかっているだけの存在にすぎない。それでは、人間としての深みや大人としての風格がでてこない。関係は世俗と離れることができない。
 ひとは関係の仕組みにとらえられるが、そこから逃れようともする。その関係をはなれた「わが世界」をもたない人間は「大人」になれない。「おれは自己の意思と責任においてここにいる」ということが大事で、「おれは世界と関係なく勝手にいきている」と感じる時間をもてない人間は大人ではない。
 単独者として主体的に生きよ! やろうとすればなんでもできる自分が先にあるのであり、その自分が能動的に「やりたいからやる」のでなければならない。関係が先行するのであれば、受身で「やらされる」「やむをえずやる」ことにしかならない。
 人間には「意識の系列」と「知性の系列」の二つがある。意識は受身になりがちである。それを乗り越えるのが知性の能動である。
 しかし、生きることは野性の営みなのであり、一寸先は闇と覚悟して素手で気配を頼りにいきなくてはならない。しかし、自然は少しのもので満足している(スピノザ)のであり、野性とはやさしくてつつましいものである。
 大人は背伸びしようという意識をすててはいけない。「自然体で生きる」などというのは子供として生きるということでしかない。そして、背伸びしていきることから「公」の意識が生まれてくるのである。

 小林秀雄の「私の人生観」などをちょっと思い出す。我事において後悔せず(宮本武蔵)というわけである。達人、名人の世界。それと「公」の世界との関係ははなはだ微妙であるが。
 最近、日本人の集団主義への批判が喧しい。自分の頭で考えよ、ということである。
 本書では、昼の集団主義の世界と夜の個の世界が峻別される。
 昼も夜も集団に埋没するのではなく、夜の個の世界をもつ大人になれ、というのだが、その個が「公」につながっていくという構図が微妙である。この「公」は<集団>のことではまったくない。そういう<集団>をこえたレベルにあるものであるが、それがある倫理ではなく「公」という言葉で表されることが適当であるのかどうか?
 ともあれ、ここに保守の生きかたといったものの一つの主張があることは間違いない。
 チェスタトンの「正統とはなにか」などにも通じる世界であろうか?
 

2006年7月29日 HPより移植