S・ツヴァイク「ジョゼフ・フーシェ」

   みすず書房 1998年
   
 ツヴァイクの本を読むのは「昨日の世界」「人類の星の時間」についで3冊目。
 「昨日の世界」は養老孟司氏の薦めにより読んだのだったと思う。「人類の星の時間」をなぜ読んだのかは忘れてしまった。ゲーテの「マリーエンバートの悲歌」の部分が読みたかったのか? レーニンの封印列車の部分が読みたかったのか?
 「ジョゼフ・フーシェ」を購入したのは、開高健谷沢永一向井敏の鼎談「書斎のポ・ト・フ」の紹介によってである。「手袋の裏もまた手袋」という政治人間をあつかった小説を論じた部分で、アナトール・フランス「神々は渇く」、ダフ・クーパー「タレイラン評伝」、モーム「昔も今も」、羅貫中三国志演義」、ブレヒトガリレイの生涯」とともにとりあげられていた。「神々は渇く」もフランス革命をあつかったものらしいから、6冊のうちの3冊がフランス革命がらみである。「書斎のポトフ」を読んだことの最大の功徳は篠沢秀夫氏の「篠沢フランス文学講義」を知ったことだけれども、その時、「ジョセフ・フーシェ」も買って、例によって読まないままになって書棚に眠っていた。10年ぶりくらいに何となく読んでみる気になった。特に理由はない。たまたま手許に読むべき本がなかったのだが、面白かった。一日で読んでしまった。
 副題は「ある政治的人間の肖像」である。われわれがあの人は「政治的にたちまわっている」などというときの「政治的」である。その信条は多数派の側にいること。そういう信条によってではなく利害得失によって動く人間を描く。利害得失によって動くという場合にも、それは通常何かの目的があって、その目的を達成するために権力をめざすということもあるのだろうが、この評伝の主人公のフーシェは達成すべき理想などは何ももたない。ただ権力の側にいてひとを支配し命令し操作することにのみ喜びを見いだす。陰謀自体が好きでたまらない。
 商人の息子として生まれたジョゼフは、当時、能力のあるものが差別をうけずに生きていける聖職者としてまず10年を生きる。しかし聖職は生きるための方便である。そこで(後のフランス革命の中心人物となるが、当時はまだ当然無名の)ロベスピエールの妹と婚約騒ぎをおこたりしている。豪商の娘と結婚し、国民公会の選挙にうってでて、議員となる。多数派たる穏健派のジロンド党に属する。しかし時の流れが過激なほうに流れるみると、「山岳」党に鞍替えし、ルイ16世の処刑に賛成する。今度は過激派内でロベスピエールと対立することになる。
 過激派の将来を確信できないフーシェは、地方へと避難する。そこでの「リヨンの訓令書」は、ツヴァイクによれば近代最初の共産党宣言である。私有財産の否定と教会の否定。しかしそれは思想にもとづくものではなく、略奪したものを中央に貢ぐためである。それにより過激派内での地位を得る。そのため今度は、リヨンの反乱の鎮圧を命じられることになる。
 フーシェは本来、血を好む人間ではない。人間は臆病なものであることをよく知っていて、テロという脅しで十分であると思っていた。しかし、穏和派であると思われると自分が危なくなるため、後年、「リヨンの虐殺者」という汚名をこうむることになる虐殺をおこなう。しかし中央での過激派の地位が危なくなったことを感じるとすぐにそれを中止する。ロベスピエールとの戦いがはじまる。ロベスピエールの恐怖政治についていけないものたちを地下工作で味方にし、ロベスピエールを倒す。
 しかし、フランス革命は頓挫し、その後フーシェは不遇の数年を過ごす。スパイをして生きるのだが、そこでフーシェの才能が開花する。「見方によっては無節操だが、無節操の点では信頼がおける」フーシェは、革命退潮後にふたたびきた「金銭」の時代に乗っていく。人脈を築き、恩を売り、やがて共和国の警察長官となる。
 全国にスパイ網を張りめぐらすが、その中には当時はただの将軍であるナポレオンの夫人で大浪費家、つねに金を必要としているジョゼフィンまでがいた。共和国は行きづまり英雄待望の気分に充ちていた。しかし英雄ナポレオン将軍はエジプトの砂漠で戦っているはずであった。だが、その夫人をスパイにしているフーシェは当然、ナポレオンの動向をつかんでいる。ナポレオンの天下がはじまる。今度はナポレオンとの相互の利用と対立の時代がはじまる。
 ナポレオンの戦争狂いに国民は倦みはじめる。それがフーシェタレーランという二人の似ていてしかも正反対のマキャベリストを結びつける。二人はともに無道徳無節操ではあったが、フーシェが成り上がりであったのに対し、タレーランは生まれながらの由緒ある貴族である。二人は憎しみ会いながらも協力する。
 一時、フーシュはナポレオンの逆鱗にふれ、無位無冠ですごす。しかし、ロシア遠征で敗北したナポレオンはふたたびフーシェを必要とするようになる。だが、ナポレオンは失脚し、ルイ18世の時代となる。その時流にフーシェの乗りそこなう。
 ナポレオンはエルバ島を脱出し、その100日天下がはじまる。フーシェはまたその警察長官になるが、ナポレオンの未来を悟ったフーシェはルイ18世の復権を画策する。しかし復権したブルボン家は、かつてフーシェルイ14世の処刑にウイといった過去を忘れない。フーシェは失脚し、失意のまま死をむかえる。
 
 ツヴァイクフーシェの本質をダブルスパイであると規定する。お互いに情報を提供しているうちに自分がどちらの陣営にいるのかがわからなくなってしまう。自分がどちらに属するかは、どちらが勝ち残ったかによって決まる。勝ち残ったものが自分の陣営である。
 フーシェは魅力的な人間ではない。おそらくタレーランのほうがずっと魅力的なのではないかと思う(今度はその評伝も読んでみたい)。「書斎のポ・ト・フ」によれば、「勤勉なフーシュ対怠け者タレイラン」であって、怠け者で女好きのほうが魅力的であるのは当然である。フーシェは英雄タイプではない。色を好まず、賭け事もしない。酒ものまない。ぜいたくもしない。何が面白くて生きているのか、というようなものであるが、それでも権力をもとめる。それではなんで権力ももとめるのか。ただ権力を行使したいから・・。
 新聞などを読んでいると、政治とは嫉妬・陰謀・裏切り・権謀術策・地下工作などの総和と思っている記者も多いのではないかという気がする。その一方では、空想的な理想論を述べることが政治であると思っているものもまた多いようであるが。
 本書でのロベスピエールとか(少なくとも後半生の)ナポレオンは困った存在である。そういうのに比べれば、フーシェのほうがどんなに増しかということはある。それに、本書によればフーシェはたんなる変節漢、無節操漢というだけではなく、まともな政治をしている時もある。
 政治に理想を持ち込むとどんなにとんてもないことになるか、というのがフランス革命あるいはそれ以降の革命思想、とくにロシア革命の帰結が示す問題である。オーウェルの「動物農場」の世界である。自分が正しいと信じている人間が権力をもつことの恐ろしさである。著者もいうように、「まったく私心のない理想家ではあるが、まさにその信念と、理想主義そのもののために、もっと過酷な現実政治家や、もっと凶暴なテロリスト以上に、不幸な事態と流血の惨事をひき起こす型の人間」がそういう理想家なのであり、「純真で、宗教的で、熱中するタイプの、世界を変革し改善しようとする人物」こそがおそろしいのである。
 ツヴァイクナチスの犠牲となったが(「私自身のことばを話す世界が、私にとっては消滅したも同然となり、私の精神的な故郷であるヨーロッパが、みずからを否定しさった」(遺書「昨日の世界」)、ヒトラーもまた「まったく私心のない理想家ではあるが、まさにその信念と、理想主義そのもののために、、もっと過酷な現実政治家や、もっと凶暴なテロリスト以上に、不幸な事態と流血の惨事をひき起こす型の人間」であったのだろうか? 政治の世界がフーシェのような人間ばかりで構成されているのであれば、非常に大きな不幸はおきないのだろうか? あるいはフーシェではなくタレーランのような人物であればいいのだろうか?
 

昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

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