J・グレイ「わらの犬」

   みすず書房 2009年10月
   
 書名の「わらの犬」は、古代中国の祭祀で用いられた捧げものである。祭のあいだは丁寧に大事にあつかわれるが、用がなくなると、踏みつけにされ、惜しげもなくすてられる。「天然自然は非情であり、あらゆるものをわらの犬のようにあつかう」という老子「道徳経」の一節に由来する(天地不仁、以萬物為芻狗)。芻狗=わらの犬である。加島祥造氏の自由訳では、「名のない領域から生まれた天と地は/ すべてのものを公平に扱う。/ 人間だけを贔屓にしたりするような、/ そんなセンチメンタルなものじゃない。/ 人でも犬でも/ 同じように生かしもすれば/ 殺しもするんだ。」である。
 しかし、著者は古代中国思想を紹介しようとするのではなく、意図するところはキリスト教批判、それもキリスト教の人間観批判である。人間は人間以外の動物とは比較を絶した特別な存在であり、それは人間だけが魂をもっているからであるとする見方をきびしく批判する。西欧世界でもキリスト教はすでにかつての力はもっていない。著者がいうのはニューマニズム(人間主義)、科学信仰、進歩への信頼、自由意志への信頼、われわれの未来はわれわれの働きによって変えうるとする思想などは、すべて世俗化したキリスト教信仰なのであり、人間は人間以外の動物とはまったく異なった特別の存在であるとする人間観をそのままキリスト教からひきついでいるということである。ダーウインの見方をそのまま受けいれているひとが同時に人間は自己の未来を設計しうるという見方もまた受けいれていたりすると批判する。
 著者の主張はまことにそのとおりであると思われるのだが、同時に、著者もまた人間は特別な存在であるとする見方を捨てきれていないのではないかという疑問も、ずっと消えなかった。
 
 著者は、ダーウインの発見が、道教神道ヒンドゥー教、あるいはアニミズムの文化の延長のもとに出てきたならば、人間とほかの生き物は同類であることの確認に過ぎなかっただろうという。人間をあらゆる生物に優越する存在であると位置づけるキリスト教を母胎としたので、人間主義者(ヒューマニスト)はダーウイン説を受容しながらも、人間は特別な存在であるとする見方を捨てられないという。科学知識を積みあげていくことで、ほかの動物を閉じ込めている限界を超えることができるなどというたわごとをいっているものがいると批判する。ダーウインの提示した世界に進歩といえるものはないのに、と。たとえば、E・O・ウイルソンは、遺伝子の操作によって人間は自己の未来を恣意的に操作できるようになる可能性があると主張している。
 そこで問題となるのが、科学が西欧から生まれたのは、たまたまのことであるかである。キリスト教思想が科学を生んだとする見方(「聖俗革命」説)は根強い。もちろん、この見方もまた西欧世界の生んだものであり、西欧の身贔屓、キリスト教思想への愛憎がその起源であるかもしれない。しかし、道教神道ヒンドゥー教アニミズムなどが科学思考を生むだろうかということについては、わたくしには疑問に思える。とするとダーウイン説がキリスト教世界から生まれたことは偶然ではないことになる。もっとも著者はダーウイン説は進歩を否定し、すべてを偶然の産物とするものと理解しているようである。そうであるなら、ダーウイン説がキリスト教世界から必然的に生まれてきたとする見方を著者は否定するであろうが。
 進化の説明にかならず系統樹というのがでてくる。下のほうには単細胞生物がいて、いちばん天辺にヒトがいる。また下等生物・高等生物などという言葉も使われる。こういう図や言葉もまたキリスト教思想の反映なのだろうか? 系統樹では別にヒトはそれ以外の生き物から聖別されてはいない。しかし単純な構造から複雑な構造へ、ということはある(もちろん、単細胞生物そのものがすでにとんでもなく複雑なのであるが)。そして一番の問題は中枢神経系の出現である。単純な刺激・反応の系から、刺激に対する一様でない(ように一見みえる)反応へと、時間が進むにつれて生き物ができることは多様になってきているように見える。これを進歩と呼んでしまうとキリスト教的見方を裏から呼び込んでしまうのかもしれないが、すくなくとも地球の歴史の中で生き物のあり方に変化がみられることは確かである。天と地はすべてのものを公平に扱う。人間だけを贔屓にしたりするようなそんなセンチメンタルなものじゃない。人でも犬でも同じように生かしもすれば殺しもするんだ、というのはまったくその通りなのであるが。
 環境保護論者もまた、ラッダイト運動に似て、地球を人間の目的に奉仕させるように変容させることができると信じているので、ヒューマニズム人間主義)の亜系であるという。環境保護論者は主としてヒト以外の生物との共生ということに力点をおいているのであり、ラッダイト運動は人の共生をもっぱら考えているものなのでかなり視点は違うのではないかと思う。ラッダイト運動は労働こそが人を人たらしめるとするので、機械が人から労働を奪うと人が人であることが難しくなるとする。ラッダイト運動がヒューマニズムであるのかどうか、人という動物は労働する動物であると規定することで人の動物性を維持するための運動なのではないかというようにも思える。
 現代社会から意図的に科学を排除することは不可能であるという。したがってそのようなことを企図する宗教原理主義者は、人間のできることについて過信するという病にかかっているという。
 一方、科学原理主義者は、科学は中立的で公平無私な真理の探究をおこなうというが、それも間違いであるとする。科学の起源は合理の探求ではなく、信仰、魔術、知略なのであるとして、ファイアアーベントを引く。ファイアアーベントは科学論の世界でも随分と端のほうに位置するひとであり、このあたりどうも著者は自分の説を補強できるならば脈絡なくさまざまな説をもってきているような印象をもった。
 ポパーについて、その説にしたがうならば、ダーウイン説もアインシュタインの論も日の目をみたはずはない、なぜならともにその説は発表当時確たる証拠の裏づけはなかったという。このあたりはポパーの論を根本的に誤解しているとしか思えない。科学は真理にいたることはなく、ただ仮説が競う場であるという見方を理解していないのではないかと思う。著者は科学は真理を提示できるというかなり古い科学観の持ち主であるように思えた。
 シュレディンガーやハンゼンベルクの提示する世界像は人間にとってははななだ受けいれがたいものであるという。量子力学の提示する像はわれわれにはまったく理解できないものである。そのことから著者は、科学が秩序だった世界像を提示できるというわれわれの科学観を、量子力学は否定するとしている。しかし、われわれにはまったく理解できないものであるにもかかわらず、量子力学の説明はわれわれが現在までしてきた観察と矛盾するところは発見されていない。つまり、それが提示するのはきわめて秩序だった世界像なのである(われわれが感じる秩序とはあまりに違った秩序であるとしても)。
 著者は、非合理な進歩信仰は虚無主義を中和する唯一の解毒剤かもしれない、という。ここが著者の最大の問題部分である。人間もまた動物であり、人の生には目的がないとすると、それは必然的に虚無主義を導き出すとし、虚無主義は避けなければならないとしているのである。それでパスカルを持ちだす。パスカルが理性を麻痺させることに信仰の意味をみたように、現代では科学の権威が人の理性を麻痺させることで、生の無意味から人が逃れることを可能としている(ように読める)。しかし、そんなことをいったらすべての議論がぶちこわしであって、科学を信仰するのも、人間の優越を信じるのも、ともに虚無主義から逃れるためということで、すべて肯定されてしまうのではないだろうか?
 モノーの「偶然と必然」の、「現代社会は、一方では科学のおかげで得たすべての力で武装し、すべての富を享受しつつ、他方ではまさにこの科学によってすでに根元を掘り崩された古い価値体系にのって生活をつづけ、それらの体系を教えているのである。(中略)西欧諸国の《自由主義》社会は、その道徳の基礎として、ユダヤキリスト教的宗教性と、科学主義的進歩主義と、人間の《生まれつきの》権利への信念と、功利的実用主義とを、混ぜあわせた胸の悪くなるような代物をいまだに口先で教えて入るのである」という部分を持ち出して、「人間はついに、自分がかってそのなかから偶然によって出現してきた〈宇宙〉という無関心な果てしない広がりのなかでただひとりで生きているのを知っている。彼の運命も彼の義務もどこにも書かれていない」ということを事実として認めるのはつらいといい、モノー自身も、それを受けいれたわけではないとしている。確かにモノーの主張する哲学(というのだろうか)は実存主義の変奏のようなものである。
 問題は単純なことなのであると思われる。科学はキリスト教の根拠を掘り崩した。しかしもしもそのことによって西欧世界が依拠してきたキリスト教道徳まで失われては困るということなのである。産湯とともに赤子まで流れてしまっては困る、と。著者もまた、人間がなんら特別なところはない動物であることを認めよ、といいながら、あらゆる動物の中で唯一道徳をもっている動物であるようにみえるという側面までは完全には抛棄できないのである。著者は、人間は粘菌となんら変るところのないものであることを認める。しかし同時にガイア説などをもちだす。唯一神のかわりにアニミズムである。しかし、人間以外にアニミズムをもつものがあるのだろうかというのが疑問である。アニミズムを持ち出した時点で人間の特別性を裏から呼びこんでしまっているのではないかという疑念が生じてきてしまう。
 カント哲学はキリスト教信仰の変形である、という。人間には「人格」があり、その行動は自由意志による「選択」に委ねられている。人間以外の動物は無自覚のまま一生を終えるが、人間には「意識」がある、とするのだから、と。
 そのヒューマニズムを批判したショーペンハウエルに著者は大きな共感を寄せる。この部分は本書でも一番おもしろかったところで、ショーペンハウエルをまったく読んでいないわたくしとしては、読んでみようかという気になった。
 続いてニーチェニーチェは根っからの宗教思想家であるという。なるほどと思った。その超人思想を笑止千万であると著者は揶揄する。
 さらにハイデガー。その思想もまたキリスト教理念の世俗版であるという。「存在」はほとんど「神」であり、グノーシス主義の蒸し返しである、と。
 ついでウィトゲンシュタイン。世界は人間が登場してはじめて意味をもつことになった、極端にいえば、人間が登場するまで、世界はなきにひとしかったとする人間中心主義、観念論である、と批判する。
 ポストモダニズムもまた、最新の流行を装った人間中心主義であるとする。
 著者は人間の特質を言葉をもったことではなく、文字をもったことにもとめる。それによって抽象世界が可能となり、人間はそれをリアリティととりちがえるようになった、と。象形文字から表音文字への変化が問題なのだとする。象形文字はかたどる原型の何かがあるのだから抽象概念を表現できないという。だから中国からはプラトン哲学のようなものは生まれなかったという。なんだか無茶苦茶な議論に思えるが、要するに中国は唯名論であり、実在論プラトンは生めないということらしい。真・善・美というのはヨーロッパのものである、と。
 著者はキリスト教による人間聖別を批判していたはずなのであるが、いつの間にか、プラトン由来の西欧思想を批判している。われわれが知っているプラトン哲学がキリスト教というフィルターを通しているのだということもあるかもしれないし、われわれが知っているキリスト教はたっぷりとプラトン哲学を取りこんでいるということなのかもしれないが、なんだか坊主がにくければ袈裟までという感じで、アルファベット文字がヨーロッパの血なまぐさい歴史を作ったという方向に議論が進んでいく。
 ヨーロッパ固有の意識偏重の典型でありまた根源でもある、コギト・エルゴ・スムのデカルトを批判する。人間以外は考えない機械であるとするのは間違いであると今さらながら指摘する。もっとも著者は自我の観念をもつのは人間だけである、という。しかし、それはキリスト教の人間観そのものではないのだろうか? そうしないために、人間の行動で意識の部分がしめる割合はきわめて小さいことを著者は強調する。
 自由意志の問題では例のリベットの実験がとりあげられる。意識が行動を決定する半秒前に準備電位が発生しているという実験である。わたくしにはこのリベットの実験が意味するところがよくわからないのだが、たとえば、今、パソコンの画面にむかって、この文を入力しているが、どのような文を打つかを決めているのはわたくしという主体ではなく、わたくしが自分の自由意志でそうしているとただ思い込んでいるだけだ、ということなのだろうか? とはいってもわたくし以外の第三者がそれをしているということでもないはずで、要は、わたくしのしてきたさまざまな経験がある文章を構成させるのだが、その文章が意識されるのは構成された後であるというだけのことではないのだろうか? とすればそれは反射的な行動であって、自由意志などと呼ぶのはおこがましいということではあっても、それはたんなる名辞の問題であって、それがわれわれが自由意志と呼んでいるものときわめて似た何かであるとしてもいいではないだろうか? 「神経科学の研究は、人間が自由意志では行動できないことを実証した」というのはどうも合点がいかない。だいたい著者のグレイ氏がこの本を書いたというのも、氏の自由意志ではないとするならば、何によるのだろうか?
 そこでフロイトがでてくる。その無意識論を否定して、前意識こそが重要であるとする。ここで著者が前意識と呼ぶものは、リベットの半秒前の電位なのだろうが、車を運転していて人と話をしていてもいざとなればブレーキを踏んでいるという話と特に選ぶところはないように思われるのだが。
 さらに統一した自我はないという方向に話がすすむ。不変の自己という幻想は言語から生まれるのだという。そうなのだろうか。それは自分の肉体が生むものではないだろうか? 
 また荘子胡蝶の夢が論じられる。確かに論理的にはどちらが夢かは指摘できない。しかし、それは論理の遊びに過ぎないので、われわれは自分が今、夢をみているのではないかなどとは、少しも疑うことはしない。
 ド・クウィンシーという作家は、「人類の悲惨の四分の一は歯痛である」といったそうである。歯科医は人類を救済しているわけである。「上水道も水洗トイレもありがたい。進歩は眼前の事実である」と著者はいう。同感である。「科学は人類の必要を満たすが、人類を変えはしない。人類は今もって昔のままである」ともいう。また、同感である。「知識の増大は事実である」という。その通りである。
 とはいいながら、著者は「狩猟採集から農耕への移行は総じて人類の福祉と自由に何の益もなかった」ともいう。だが、歯痛の制御も、上水道も水洗トイレも農耕への移行があってはじめて実現したことである。ものを持たないのは貧しいのではなく自由なのだというサーリンズというひとの説を紹介しているが、何だか論旨が分裂している感じである。
 動物は生きる目的を必要としない。ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。人生の目的は、ただ見ることだけと考えたらいいではないか、というのが著者の結論である。結語にいたっても、著者は人間は人間以外の動物とは異なっているという見方を手放すことがない。
 動物は生きる目的を必要としない。人もまた動物である。生きる目的を必要としない、という当然の方向になぜいけないのかが、最後まで疑問として残った。キリスト教の人間観が著者にもまた深く浸透しているからではないだろうか?
 
 昔、読んだ、タッジというひとの「農業は人類の原罪である」という薄い本がある。原罪という題が気になるが、これは訳者がつけたもので、原著の題名ではない。農耕はいったん始めたらやめることができないものであるということを述べたもので、いってみれば智恵の木の実を食べたのと同じというようなことだから、原罪という題名も当らずとも遠からずというところなのかもしれない。農耕をはじめてしまったことでヒトの歴史には方向ができてしまった、あるいは農耕を始めることで歴史というものがはじまった、円環の時間から方向を持つ時間へと移行したということなのであろう。
 こういう本を読むと、どうしても思いだすのが吉田健一の「覚書」の第三章である。「人間だけが地球で特別な存在、その特別といふことにも色々な意味があるが要するに動物と我々が総称してゐるのとは違つた一種の得体が知れないものになつた」のはなぜかということを論じたものである。こういう見方は「宗教の教義を離れては迷信に過ぎない」のに「人間のしたことが余りに偉大なのでいつの間にか動物のやうでゐて動物でないものになつたのか」と揶揄している。吉田氏によれば、犬畜生というのは儒教に発する言葉で、支邦民族は人間と人間以外の動物を全く別個の存在と考えていたらしい、という。そうであるなら、これはキリスト教だけに固有の見方ではないということになる。
 魂の有無によって人間と人間以外の動物を分けるというキリスト教に由来する見方を吉田氏も論じるが、不滅の魂の有無は我々にはどうでもいいことだと一蹴し、議論を精神の問題にしぼる。中枢神経の働きに属する一切を一般的にいったものが精神という言葉なのであるから、精神は脳をもつすべての生き物にあると氏はいう。
 吉田氏がいうのは、人間以外の動物は純粋に時間とともにあるということである。「動物はただ生きてゐることを望み、或は生きてゐるのを自然のことと心得てゐるに過ぎない」という。「生きてゐるのを自然のことと心得るのが時間とともにあること」なのであり、「我々人間もそれ以外のことをしてゐるのではない」という。
 ドーキンスなどの反宗教論を読んでいていつも感じるのは、道徳や倫理といったものへの劣等感のようなものである。聖書の記載そのままを信じるひと、それによって生き物の歴史をみることを拒否するひとへの嫌悪はよく理解できるのだが、その舌鋒の鋭さはキリスト教が消えてしまうと倫理や道徳もまた根拠を失うのではないかという不安と一体になっているのではないかという邪推をさそう。だから、9・11一神教が大きな悪をなしたことで安心して一神教攻撃にふみきることができるようになったのではないかと思う。
 キリスト教がなくても、あるいは倫理や道徳というものがなくてさえも、文明が築ける可能性があるとは、ドーキンスもそして本書の著者も思えないらしい。それだけ、西欧世界をまだまだキリスト教が覆っているということなのである。
 われわれは西欧に生まれつかなかったことの幸福をかみしめなければならない。
 

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