丹生谷貴志「家事と城砦」

  河出書房新社 2001年1月20日初版


 丹生谷貴志の名前をはじめて知ったのは「書肆風の薔薇」というところから刊行された「吉田健一頌」という本の中でであった。この本は、丹生谷貴志四方田犬彦松浦寿輝柳瀬尚紀の4人がそれぞれ吉田健一論?を書き、後書きを清水徹が書いているというものである。この人選をみても、まずは普通ではない本である。それまでのさまざまな吉田健一論、篠田一士高橋英夫からはじまって丸谷才一大岡信(はちょっと違うかもしれないが)、さらには倉橋由美子にいたる<大人の文明擁護者>という吉田健一像になにかものたりないものを感じていたので、この本はとても新鮮であった。
 特にこの中の丹生谷貴志の「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」(現在は「天皇と倒錯」所収)は、同氏が新潮社の吉田健一集成の月報に書いた「獣としての人間」という文とともに、今まで読んだ吉田健一論の中で、もっとも共感できるものであった。
 この「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」は、精神病理学中井久夫氏の分裂病発症直前の「奇妙な静穏期」をあつかった分裂病論のタイトルをそのまま用いたもので、この論文で中井氏はこの「奇妙な静穏期」は通常ごく短期間しか持続しないものであるのに対して、まれにそれを生き続けるひとがいるとして、その例として、ヴァレリー、ヴィットゲンシタイン、リルケマラルメ、ユンク、マックス・ウエーバー、カントールなどをあげている。丹生谷氏は吉田健一の描く一見安定した大人の世界も、この<分裂病発症直前の「奇妙な静穏期」>とパラレルなものとしてみるのである。
 この本ではまた、中井久夫氏の名前も知ったのだが、以来、丹生谷氏の本は目につくと買うようにしている(そして中井氏の本も)。その過程で丹生谷氏がいわゆるドゥルーズ学者であるらしいことがわかった。ドゥルーズをふくめたいわゆるフランスのポストモダンというのは何だが読んでもちっともわからないものある(たぶん、こちらが頭が悪く、フランス語が読めず、翻訳も悪い?ためだろうが)。丹生谷氏の本を読んでも相変わらずちんぷんかんぷんではあったが、それでも何となくドゥルーズ的なものの輪郭だけは、おぼろげに見えてきたような気もする。
 この本は1年以上前にでた本であるようだが、最近偶然本屋で見つけた。丹生谷氏による「文芸時評」?である。

さて・・・、
 ドゥルーズは、人のランダムな運動の結果として社会制度がうまれることを否定しなかったが、それがランダムな運動との関係を絶たれ、固定することを拒否した。(「雲の肯定」)
 西欧は、言語を男性的なものとみなしてきた。それに対して、男文字を女文字を混ぜて使用してきた日本語の特殊性を考える必要がある。(「「日本語」への闘争・・・・・」)
 「芸術」とは、「未知」を「既知」に回収しようとする意思である。しかし、その意思が「科学」の役割となってしまったあとでの芸術のとるべき方向はどうなるのか? 「科学」の活動のあとに残るものは「知ったところでどうにもならないもの」(たとえば、人間はすべて死ぬ)と「知ろうとして知りえないもの」(たとえば、死とは何か、恋とは何か・・・)だけである。そうして、その一番最後に残る扉には「この世界を知り尽くしたところでそれが何だというのか」と書いてある。(「小さなアポカリプス」)
 次の「瓶の中のメッセージ」は、村上春樹氏の「神の子どもたちはみな踊る」を論じたものである。わたくしがただぼんやりと読んだ本も、読むひとが読むとこんなに精緻に読めるのだと驚嘆する。
 村上氏の物語は、男の物語である。女は傍らにいて、それを理解し、問い詰め、見守り、許す。第一作『UFOが釧路におりる』の主人公、小村は無気力である。それは対象を支配しまいという優しさではなく、対象との闘いを回避することで対象までも消去していまおうという残酷な無気力なのである。そういう空っぽさにおいてなお、「女・子供」の守り手になれるか?という問いが「神の子どもたちはみな踊る」全編をつらぬくのであり、それへの解答が、以下の連作?短編で追及される。しかし、それは、はるか昔に海に投じられた「瓶の中のメッセージ」にも通じているようにも思える。
 次の「「家事」と「城砦」」は、哲学?の議論である。
 英国系の優れた作家には、何か「唯名論」的な性格といったものが感じられる。
 「唯名論」・・・「猫」という言葉は或る現実の対象に与えられた「名」にすぎず、それ自体としての持続的存在性(実在)を持たない、という主張。
 「実在論」・・・「猫」という言葉は現実の猫たちと結びつきながらもそれ独自の「存続」を持つという主張。
 ヒュームの哲学は「唯名論」に根ざしたものである。
 一方、古典音楽と古典絵画は「実在論」に根ざす。
 だから、英国には大作曲家がなく、絵画の伝統も大陸とは異なる。
 プルジョワジーとは「城砦に住む人」の意味である。城砦の管理者であるブルジョアジーは「実在論者」たちである。女たちは城砦の淵で「家事」をする「唯名論者」である?。
 「小説の最後の使命」では、司馬遼太郎の「現代」への嫌悪が語られる。司馬遼太郎は「死者」の物語しか書くことができなかった。死者たちの物語は俯瞰しうる。氏が構想したノモンハンの小説を書くことが出来なかったのは、それがまだ生者の物語でもあり、氏自身も参加した出来事であり、到底俯瞰してながめることのできないものであったからである。
 無数の偶然の瑣事からなる現実を「リアリズム小説」で書こうとすれば、そこの何らかの「永遠の相のもとにおける外部からのまなざし」を導入せねばならない。それが作者の恣意をこえた「現実味」を保障する。しかし、神の目の伝統のない日本でそれをしようとすると嘘くさくなる。嘘くささを避けようとすると、「私小説」がでてきてしまう。

 相変わらずわからないところは沢山残るが、いろいろな部分が思考を刺激する本である。
 たとえば、吉田健一の反観念論は「唯名論」の変奏なのか? ポパー唯名論? 村上春樹はマッチョな作家? 等々。
 ポパーは「果てしなき探求」で、彼が「反本質主義」とよぶ自分の立場を、当初は「唯名論」の一変種であると考え「方法論的唯名論」とよんでいたと述べている。一方、自分は外部世界の存在を一度も疑ったことはないから「実存」を信じる立場であるが、「実在論」というのが「唯名論」と対立する言葉として用いられていることが問題であるとし、プラトンアリストテレスの立場を「実在論」ではなく、「本質主義」と呼ぶことにしたのだという。
 ポパーは、「唯名論」「実在論」の議論を、言葉の問題であるとするのではなく、生物が類似の事態に同じような反応をすることと同じ問題として考えることが重要であるとしている。すなわち、期待あるいは予想の問題としてあつかうのが大事であるという。
 カール・ポラーニは「方法論的唯名論」は自然科学の特徴であるが社会科学の特徴ではないと評したという。またゴンベルツはポパーの立場をどこからみても「実在論的」であると評したという。
 このように「唯名論」と「実在論」は、一筋縄ではいかない問題である。
 吉田健一が、イギリスの小説家、ウォーとかフォースターに親近感を感じていることは確かである。これらの作家が観念論と正反対の立場にいるのは確かであるが(ウォーの「黒いいたづら」、フォースターの「ハワーズ・エンド」)、それらを唯名論的といっていいのかはよくわからない。ドイツとイギリスという対立項をつくり、その中間にフランスをおくとしたら、ヴァレリーはイギリスに近いのであろうか? ロシアはどこに位置するのだろうか? 今度の大戦で、日本がドイツと組んだということは何か必然があるのだろうか? 
 村上春樹にはインポの匂いがあると中島梓がどこかで揶揄していた。それをマッチョとみる立場があるとは思わなかった。しかし、いわれてみれば、あれは洗練されたマッチョというものなのかもしれない。村上龍はもう少し粗野なマッチョなのだろうか?

 ドゥルーズは、あるいは一般にポストモダンの思想家はとにかく「壊す」ことを目的にしたのであろう。現在の体制にノン!ということ。しかし、そこでは対案はない。対案があるべきという思考自体が敵の土俵に上がってしまうことになると考えたのであろう。


2006年7月29日 HPより移植