佐々木邦「心の歴史」

  みすず書房 2002年7月24日初版


 佐々木邦の名前をはじめて知ったのは、渡部昇一の何かの随筆でだったと思う。機会があったら読んでみたいと思っていたが、このたび、みすず書房の「大人の本棚」シリーズの一冊として、長編「心の歴史」が収載されたので読んでみた。
 「心の歴史」というのは随分と大袈裟な題名だが、平凡な人間にも「幾つかのロマンスがあり、青春から今日までの心の歴史がある」ということで、老境に入った人間が過去をふりかえって書くという、いたってまっとうな形式で書かれた小説である。
 といってもロマンスとは愚挙であり、「人生愚挙多し」というのがこの小説の主人公、ひいては筆者の立場であり、したがって恋愛というほどでもない淡い感情が淡々と、ときにユーモアをもって描かれていくだけで、大きな起伏もない地味な小説である。
 この本を読んで感じるのは、こういう小説は現代にはないなあということである。老境にいたった人間が、自分の<愚挙>をふりかえりながら、後進に自分の生きかたを語るという体裁の小説は現在においてはまず書かれることはないと思われる。今の人間は老境に入っても自分の生きてきた歴史からある人生の指針を示すというような安定した生きかたをしていない。老境にあっても混乱のままであり、ひとに語れるような確固としたものを何ももっていない。
 そういう点で古き良き時代(描かれているのは主に戦前で、戦後の混乱期にそれを回想しているという形式)という言葉を思い出させる。
 著者はマーク・トウェインウッドハウスを好んだということであるが、むしろ漱石の「猫」などを想起させる部分もあるように思われる。
 確かに、大人の本である。


2006年7月29日 HPより移植