E・M・フォースター「小説の諸相」

  E・M・フォースター著作集8 みすず書房 1994年
  
 小説をろくに読まないくせに、この手の本は結構読んでいるというは困ったものである。フォースターの小説をいくつか読んでいるので、平行して読んでみた(再読であるが、前に読んだのがいつかは忘れた)。
 フォースターの小説論の肝は文学史的な見方の否定である。小説の歴史がはじまって以来の作家が大きな部屋に一堂に集まって、同時に小説を書いているいる光景を想像しようという。彼らはみな平等なのである。後から来たものが前のものよりも優れているということはない。こういうことは音楽ではないなと思う。たぶん絵画においてもそうであろう。和声学も対位法もなにも知らないで作曲することはほとんど不可能であろう。歴史が後になるほど使える技法は増える。もちろん、使える技法が増えたからといって作られる曲が優れたものになるということはない。先日、ある演奏会ではじめてきく後期ロマン派の作曲家の作品のあとにベートーベンの交響曲を聴いた。おそらくその後期ロマン派の作曲家がその曲のために書きつけた音符の数はベートーベンの曲の何十倍にもなるであろう。それにもかかわらず、曲に印象はベートーベンの何十分の一であった。音楽や絵画にくらべて小説においては技法に依存する部分が低いということである。
 それで小説においてはさまざまな時代の作家が一堂に会することが不自然ではない。
 小説のいちばん基本的な要素はストーリーである、とフォースターはいう。なくてはならないが、それでもそれは太古以来のそれから先はどうなるのという興味に依存する一番小説において不純なものであるという。
 登場人物はかならずしもすべてが立体的人物である必要はなく、平面的な人物もまた小説では有用に利用できるという。視点の問題にあまりこだわる必要はないという。
 プロットはストーリーより高級なもので、ストーリーが時系列によるのに対して、プロットは因果関係によるという。あるできごとのあとに次にこういうことがおきたというのがストーリーであるのに対し、あることのためにこうなったというのがプロットなのであるという。ストーリーは好奇心を刺激するだけだが、プロットは知性と記憶力を要求するという。
 幻想と予言をあつかうあたりからフォースターらしさが濃厚にでてくる。予言で引用されるドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」からの引用とそれについてのフォースターの説明の部分だけでも本書は読むに価する。またD・H・ロレンスについての独自の見解もまた秀逸である。こういう部分を読むと、一見そうとは見えないけれどもフォースターもまたロレンスに連なる幻視の人であることを強く感じる。「ハワーズ・エンド」などに典型の「土地の霊」的感性である。
 引用されいるブレイクの手紙の断片、
 
 神よ、単一のヴィジョンと、ニュートンの眠りから、
 われらを守りたまえ!
 
 について、明らかにフォースターはブレイクの側にいる。ただニュートンを、つまりは科学をあるいは物質的見方を否定はしないのである。それだけではいけないのだ、というだけである。
 「パターンとリズム」の章では、あまりに整然とした構築的な小説への嫌悪を表明する。小説は戯曲ほどの芸術的には発達できないという。なぜなら人間はあるいは人間性は俗なものだから。
 本書を読むと、ストーリーというような俗な不純な部分をふくむが故にフォースターが小説の味方となっていることがわかるが、同時にそれがために完全には小説を信用できないとしている姿勢がわかる。つまり小説という、人間という俗で不純なものにもっとも近い表現形態への愛情と嫌悪の両価的な感情が、本書では微妙なかたちで表現されているわけである。


小説の諸相 (E.M.フォースター著作集)

小説の諸相 (E.M.フォースター著作集)