E・M・フォースター「果てしなき旅」

   岩波文庫 1995年
   
 そのうちに面白くなるのかなあと思って読んでいったのだが、最後まで面白くならないで終ってしまった。その最大の原因は主人公のリッキーに魅力がないことであろう。作者がリッキーを突き放すことができなくて、うまく距離がとれていないので、リッキー像が窮屈なのである。それにくらべれば、もう一人の主人公スティーブンのほうはずっと魅力的である。なんだがロレンス的なというか野性的というか文明に毒されていないというか古代的なというか、そういう像なのであるが、本書の登場人物の中で唯一血がかよっている人物であるという気がする。
 一方、奥さんのアグネスはあんまりな書かれ方である。本書はフォースターの生前は秘密であった同性愛を背景にみないと理解できないという説があるのだそうで、女は男を堕落させる魔物とでもいいたいような書き方である。女=現実、男=精神などというとあまりに図式的であるが、ほとんどそういいたげな書き方である。三島由紀夫は「第一の性」(集英社 1973年)というふざけた本で「男はとにかくむしょうに偉いのです。/「英雄の心事は女房にはわからぬ。」/男は一人残らず英雄であります。/男の愚劣な英雄ごっこは、ただちに肉体の領域を通り抜けて、精神の世界にまでひろがってゆき・・/「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。」などと吹いている。だから青白い man of letters のリッキーも英雄ではあるのだが、精神はあっても肉体を欠くわけで、そこで大地の生命と結びついたスティーブンが登場してくることになる。
 ロレンスと違ってフォースターは自分が文人以外のものになれるとは思ってもいなかったであろう。だから、リッキーからみたスティーブンは賛嘆の対象ではあっても、自分は絶対にそうはなれない存在として描かれている。フォースターは「文の人」は生涯のうちのごくわずかな時間でもスティーブンのような生命の息吹に触れる瞬間があれば、それでよしとしているのであろう。
 最近、イギリスの小説を集中して読んでいるが、みんなケンブリッジ・オックスフォードの世界である。英国における大学教育の大きさということを感じる。
 原題の The Longest Journey はなんとなくロマンティックではあるが、もとはシェリーの詩からとられていて、全然そんなものではない。今回は岩波文庫の高島和久訳で読んだが、「E・M・フィースター著作集 1」(みすず書房 1994年)の川本静子訳ではこうなっている。
 
 人はだれも一人の恋人や友人を
 世間の人々のなかから選び出し、そのほかの人たちは、
 どんなに美しく聡明であろうと、
 心動かされず忘れよと説く教派に
 私はかつて加わったくことがない―
 これが現在の道徳規範で、哀れな奴隷たちが
 疲れた足を引きずって辿る道ではあるけれど。
 哀れな奴隷たちはその世間の大通りを通って、
 死者たちの群れのなかのわが家へと歩み―
 一人の悲しげな友人と、
 おそらくは嫉妬深い一人の敵とともに、
 わびしくも果てしない旅を続けるのだ。
 
 つまり本書はリッキーが一夫一妻制という「わびしくも果てしない旅」のくびきから解放されようとしたところで挫折する話なのである。
 ところで、岩波文庫版の解説で訳者の高橋氏が「フォースターはまったくの哲学音痴で抽象的な議論にはついていけなかった」というようなことをいっているのを読んでうれしくなった。わたくしがフォースターに感じる親近感の根源が少しわかったような気がした。哲学音痴というのは観念論が身に沁みないひとのことである。わたくしも観念論的な議論を読んで身につまされたことがない人間である。いつもどうでもいい議論のように感じてしまう。
 主人公のリッキーは哲学音痴ではあるが、それでも哲学に引け目を感じている。一方、スティーブンは哲学など歯牙にもかけない。だから本書は観念論にとらわれて本当の生命に接触できないでいたわびしい果てしない旅からの脱出の物語でもあるのであろう。


果てしなき旅〈上〉 (岩波文庫)

果てしなき旅〈上〉 (岩波文庫)