岡本嗣郎「陛下をお救いなさいまし 河井道とボナー・フェラーズ」

  集英社 2002年5月7日初版


 新渡戸稲造と津田梅子の弟子であり、恵泉女学園を創始した女性である河井道と、マッカーサーの部下であり、アメリカの占領政策とくに天皇の処遇の方策について大きな影響をもった人物であるバナー・フェラーズについてのノン・フィクションである。
 河井とフェラーズの関係は、津田の弟子であり河井の弟子でもあるとともに河井に終生仕えた渡辺ゆりが、留学先でフェラーズで同窓だったことにある。渡辺はフェラーズにラフカディオ・ハーンを教えた。当時のアメリカ陸軍きっての日本通であり、対日心理戦の責任者だったフェラーズの日本理解はハーンによっている。
 マッカーサー占領政策のなかでも天皇制の処遇についてはフェラーズに負うところが大きいとされている。
 フェラーズと日本のかかわりは、かれがアメリカの日本占領政策にあたえた影響を通してである。その政策はハーンを通しての日本理解に負うところが大きいわけだから、渡辺ゆりとフェラーズは確かに大きなかかわりがあるといえるが、河井とフェラーズの直接の関係はそんなに大きいとはいえない。
 したがって本書は、河井が恵泉女学院創立に孤軍奮闘する姿と、占領軍の対日政策とそれへのフェラーズのかかわりを書いた部分に分裂しており、焦点の定まらない本になっている。特にフェラーズという人間が何を考えていたのかが、本書からはどうもよく伝わってこない。
 それにくらべると河井道という女性の姿はなかなか魅力的である。強い信念をもつクリスチャンというのは魅力的ではあるが、しかし、そばにはいて欲しくない人物でもあるかもしれない。
 どうしてもわからないのが、この当時の日本人が天皇に対して抱いていた感情である。クリスチャンが天皇にも絶対帰依に近い感情を抱く、それが本人の中で矛盾しないというのがわからない。当時の人間が国体という言葉で実感していたであろうものがどうしてもわからない。
 フェラーズは明らかに占領政策がうまくいくためには天皇の戦争責任は棚上げせねばならないと思っている。天皇裕仁個人への思い入れはない。一方、河井道には理屈ではない敬愛を天皇制と裕仁個人に捧げていたように思われる。
 したがって両者の天皇制への観点はまったくことなっているわけで、その点を曖昧にしたまま両者の関係がえがかれているのが、本書の印象が散漫になっている理由なのであろう。
 というよりも、著者自身の天皇制への態度がそもそもはっきりしておらず、フェラーズと河井の間をゆれているように思われる。
 「敗北を抱きしめて」におけるダワーの姿勢がきわめて鮮明であるのと、それは対照的である。
 天皇制の問題を曖昧なままにしているのが、日本において様々な問題が根源的に問われることなく曖昧なままで放置されることが多い原因となっているということはないだろうか?


2006年7月29日 HPより移植