山田風太郎「同日同刻 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日」

  ちくま文庫 2006年8月8月10日初版 原著1979年8月刊
 
 太平洋戦争開戦の昭和16年12月8日と終戦の昭和20年8月1日から15日までの15日間を、さまざまな人たち(米国と英国の政治家と軍人をふくむ)の言動で構成したものである。文庫本で330ページほどの分量だから、それほど多くのひとの証言を集めているわけではない。個人的な感想としては、少なくともこの3倍くらいの証言があると、もっと重層的な構成となったのではないかと思う。もちろん、いくら言葉を重ねても、山田氏がいう《仏教伝来とか蒙古来襲とか開国維新などにくらべても比較を絶する日本歴史上の大事件である太平洋戦争》を描きつくすことは不可能なのであろうが。
 まず開戦の日。ハワイ奇襲の「利根」の参謀の言「快なる哉、敵はついに覚らざりしなり。覚えたかアメリカ、三十余念積怨の刃は汝の胸に報いられんとするを。まず匕首直ちに敵の心臓を衝く雷撃は開始せられたり」 
 そしてそれと同じような感想を、徳富蘇峰高村光太郎獅子文六坂口安吾太宰治も神林暁も火野葦平徳川夢声尾崎士郎伊藤整武者小路実篤青野季吉も島木建作も長与善郎も横光利一も、抱いているのである。感想に共通するのは、今日から日本が変わる、違う日本になる、新しい日本になる、世界が一新する、自分が別人になる、言葉のいらない世界になる、というようなもので、不潔な政治の世界から潔い神州の日本へとでいった一種宗教的な回心を思わせる何かである。そして、山田風太郎のいうように、国民の99%までが勝利に有頂天になっていたのである。
 例外は永井荷風谷崎潤一郎で、なんだか他人事のように見ている。
 少し驚いたのは、近衛文麿がその時点で日本の敗戦を予見していること、松岡洋右三国同盟を悔やんでいること、であった。
 ここにでてくる文学者としては、永井と谷崎を除けば、加藤周一が例外的に冷静である。 一番印象的なのはルーズベルトの冷静沈着と、チャーチルの《これで戦争の構造が簡単になる、アメリカがわが陣営に永久に加わる、これで戦争に勝った》という感激と興奮である。
 日本はここで《聖戦》に入るが、アメリカもイギリスも《政治》の世界のままである。
 そして終戦の15日間。
 描かれるのは、一つは原爆投下への動き、もう一つは国内での戦争終結への動き、軍の乾坤一擲の大奇襲作戦。一番多くのページを割かれるのは原爆被害の悲惨である。あとはソ連の参戦とそれによる満州の悲惨と関東軍の無能と卑劣。そして民衆の疲弊と一部軍人の神がかり。初めて知ったのは原爆被災後の広島の人たちが徹底抗戦派の最右翼となっていたということである。
 玉音放送のあとの人びとの静かさ、それは4年前の開戦の高揚と対照的である。
 おそらく、ここに現今の靖国問題の根っこがあり、昭和16年において、太平洋戦争突入は必至のもの、必然のもの、避けられないもの、望ましいものとされていたのに対して、4年間の戦争の間に、多くの人からは憑き物が落ちてしまったのである。
 そして太平洋戦争突入前から中国では泥沼の戦いが続いていたのであり、それは侵略戦争であるが、それにもかかわらず、太平洋戦争は防衛戦争であるという認識を持つものが一方にあり、他方では東南アジアへの侵略戦争は太平洋戦争の敗北という形以外では終わることができなかったという認識から、敗戦こそが日本を誤った道から救い出してくれたという認識をもつものがいるわけである。
 一番の問題は、大部分の人間が昭和16年の時点では今日では侵略戦争であるといわれるものを支持していたのであり、一部指導者の間違った方針にみながいやいや従っていたという構図では全然なかったということである。そして太平洋戦争の経過の中で、指導者の方針にだんだんと疑問が生じるようになってきており、敗戦の時点では、それが非常に大きな趨勢となっていたことである。
 しかし、4年間の間にこの戦争が侵略戦争であるという認識が次第に浸透してきたなどということは全然なく、生活の困窮を強いる政府への不信が生じただけである。
 本当の問題は、太平洋戦争突入が必至の避けられない事態であったのかということのほうなのであろう。それが必至のものであったとするならば、太平洋戦争の戦争責任という議論は随分とおかしなことになる。おそらくここでもでてくるのは《なる》と《する》の対立である。誰かが戦争をおこしたのか、それとも、戦争は誰の責任でもなく、自然におきてしまったかである。《なる》という無責任体制を批判したのが丸山真男であるが、A級戦犯とされた人間のほとんどは、戦争がおきたときにたまたまトップにいただけという認識であろう。誰かの明白な意思が太平洋戦争をひきおこしたというようなことはなかなかみえてこない。だからみんな犠牲者だという不思議な議論もでてくるわけだが、それでは困る、誰かを戦争を引き起こした責任者にしないと、あの戦争が悪い戦争であった、侵略戦争であったという《本質》がみえなくなってしまう、という論も当然でてくるわけである。
 日本が明治維新のおいて《脱亜入欧》をはかったその帰結として太平洋戦争があった、明治に日本が選択した(あるいはそれしか他に道はないとした)路線の無理はどこかで膿を出さざるをえなかったのだ、ということなのかもしれない。それは本当に愚かな間違った道であったとしても、それでもそうせざるをえなかったということであるとすると、そのどちらに比重をおくかによっていかようにも議論は変わってしまう。それを強引に片方だけに理があるといってしまうために、議論が空転してしまうのではないだろうか?
 敗戦前後の話を読んでいて、いつも疑問に思うのが「国体の護持」という言葉である。「国体の護持」とは何を意味するのだろうか。もちろんそれは天皇制の維持というとこだろう。しかし、戦後憲法下における象徴天皇制によって、国体は護持されたのだろうか? 敗戦前後、国体の護持といっていた人々の頭にあったのは、明治の時代の伊藤博文らによって作られた元勲・元老制度のような法的根拠のない何人かの人間による支配体制なのではないのだろうか? 要するに民主主義など信じられない。多数決などとんでもない。有能な人間数人がことを決めていけばいい、ということなのではないだろうか? そして、そういうことに反対する側の人間も民主主義など信じてはいないのである。丸山真男なども信じていたのは一部のインテリだけであろう。農民など一切信じてはいなかったはずである。そして民主主義が衆愚制でない保証はどこにもない。ところが、その民主主義がアメリカによって配給されてしまったわけである。アメリカ占領下の民主主義というほとんど形容矛盾としかいえないもので、戦後の日本は出発したわけで、いわば元老による支配からアメリカ占領軍による支配に移っただけであったのかもしれない。
 敗戦日本を論じた文はいろいろあるが、その中で一番印象に残っているのが、林達夫の「新しき幕明き」である(「歴史の暮方 新編 林達夫評論集」筑摩叢書 1968年 所収)。5ページ少しの短い文であるが、林氏の他の文同様内容は濃い。

 戦争に敗れるということの暗い恐しさを、世界史の生きた先例の数々は私に前もって教えてくれていた。だから勝目のあるとも思われぬあの戦争に、それかといって事もなげに人々の言ったようにおいそれと負けることにも、私は堪えられない理不尽な思いに駆られていたのである。私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった。わが身のどこにそんなにもたくさんの涙がひそんでいるのかと思われるほど、あとからあとから涙がこぼれ落ちた。(中略)「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。
 嫌悪に充ち満ちた古い日本ではあったが、さてこれが永遠の訣別となると、惻隠の情のやみ難きもののあることは、コスモポリタンの我ながら驚いた人情の自然である。(中略)
 新しき日本とはアメリカ化される日本のことであろう――そういうこれからの日本に私は何の興味も期待も持つことはできなかった。私は良かれ悪かれ昔気質の明治の子である。西洋に追いつき、追い越すということが、志ある我々「洋学派」の気概であった。「洋服乞食」に成り下ることは、私の矜持が許さない。(中略)
 その時から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと的中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題が Occupied Japan 問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。この Occupied 抜きの Japan 論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない。(中略)戦争の真実を見得なかった連中は、やはり戦後の真実をも見得られなかったわけである。戦争後の精神的雰囲気の、あのうそのような軽さこそ、人民の指導的立場になる知識階級の政治的失格を雄弁に物語るものである。


 わたくしは志はないけれども、それでも「洋学派」ではあると思っているので、「アメリカ化」を志向するのではない「洋学」というものがあると思っている。アメリカはあくまでも辺境の地であって、ヨーロッパという西欧の中心からは外れた例外の地であると思っている。ヨーロッパの深さというものをその腐敗もふくめてまだまだ学ぶことはたくさんある(というかほとんど何も知らない)と思っている。明治であの路線を選んでしまった以上は、われわれはもう「洋学」でいくしかないのであって、「洋学」でいくなら本場から学ぶべきであると思う。
 太平洋戦争は、明治で選択した路線への日本人の悲鳴であったのであり、しかしそうではあっても、これからもその路線を踏襲するしかないという覚悟を決めるための時間でもあったのかもしれない。ところがそこにでてきたのが、アメリカという「異端の」西洋であったということでいろいろと掛け違いがおきているのかもしれない。戦後憲法にその異端ぶりは典型的にあらわれているのであろう。
 山田風太郎の「戦中派不戦日記」(講談社文庫 1985年 原著1971年)は昭和20年の日記だが、山田青年が軍国少年から8月15日を境に次第に醒めていく様子が記録されている。わたくし個人としては「同日同刻」よりも「不戦日記」のほうが面白く読める。
 もしもその当時にわたくしが生きていたらどのようになっていただろうかと思う。吉本隆明氏のように、山田誠也(風太郎)青年のように、軍国少年になっていたのだろうか。自分としては吉行淳之介風の醒めた態度でいることを期待したいのだが、果たしてどうだろうか?
 


同日同刻―太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日 (ちくま文庫)

同日同刻―太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日 (ちくま文庫)