長谷川眞理子「ダーウィンの足跡を訪ねて」

  集英社新書ヴィジュアル版 2006年8月17日初版
  
 日本における進化生物学啓蒙運動を先導している長谷川氏が、自分でダーウィンの足跡を訪ねて構成したダーウィンの半生記である。200ページほどの小著で写真も多いので、とりたたて新しいことが紹介されているわけではない。というか、なんとなく、芸能人の追っかけをやっているノリなのである。ダーウィンと関係のある場所ならばどこにでも興味があるらしく、住んでいた家とかを喜々をして写真をとったりしている(ほとんど家屋不法侵入みたいなことまでしている。もっとも、それをしているのはご主人なのだけれども。この夫婦は二人とも、どことなくダーウィン・ストーカー風である)。
 ダーウィンは、われわれの思想にあたえる影響という点から考えて、フロイトマルクスを凌ぐ存在にこれからなっていくだろうと思う。フロイトマルクスは今後、事実によってその根底が侵食されていくことは避けられないのに対して、ダーウィンは今後すべての思想家が考慮せざるをえない根底的な思考の枠組みを、相変わらず提供し続けるであろうからである。
 ダーウィンという人間がいなかったとしても、ダーウインが提示した進化の見方はいずれ誰かによって発見されていたであろう。アインシュタインがいなくてもいずれ相対性原理を示したものがでたであろうのと同じである。しかし、フロイトがいなければ、無意識とか抑圧といった見方がこれほど流布していることはなかったであろうし、マルクスがいなかった場合の世界というのは、想像することもできない。
 ダーウィンアインシュタインが大変に興味深い人物であったのは事実であるとしても、それが立派な人である必要はないはずである(これはフロイトマルクスについても同様だが)。しかし、どうも長谷川氏はダーウィンが立派な人であってほしいようなのである。ダーウィンは当時のイギリス貴族社会という途方もない貧富の差を当然とした社会で一生を送ったが、それでも人種差別には反対する当時としての進歩思想の持ち主であったとか、いろいろ弁護している。さすがに結婚の利害得失表をつくるダーウィンは理解しがたいといっているが。
 ダーウィンの伝記をたどるならば、キリスト教信仰との対立という点が最大の問題となるはずなのだが、日本に生きる長谷川氏はそういう問題とは直面しない。だから長谷川氏の描くダーウィンは随分と微温的である。
 収められた多数の写真、とくにガラパゴス島の動物たちの写真は美しい。こういう写真を見ると、人間というのは醜い動物だなあという思いを禁じえない。裸のサルは見るに堪えないので服装を必要とするようになったのであろうか。

ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)

ダーウィンの足跡を訪ねて (集英社新書)