川端康成 「千羽鶴」

   新潮社「新潮日本文学15」1968年所収 原著1952年

 このところ仕事が少し忙しくて、固い本を読む気力が沸いて来ないためかもしれないが、それなら小説でもということで、川端康成のあまり長くない小説を読んでみた。これで川端の長編は「雪国」に続いて二作目。「千羽鶴」は以前読み出して、中途で抛りだしてあった。
 以前、倉橋由美子の「夢の浮橋」を読んだとき、その書き出しが「千羽鶴」だ、と思った記憶があるから、書き出しは覚えていたわけである。

 三月初めの嵯峨野は地の底まで冷えこんで木には花もなかつた。桂子が嵐山の駅に着いたのは正午まへで、耕一と会ふ約束の時刻にはまだ間があつた。(「夢の浮橋」)

 鎌倉円覚寺の境内にはいつてからも、菊治は茶会へ行こうか行くまいかと迷っていた。時間にはおくれていた。(「千羽鶴」)

 「敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰ってゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるいは信じない」という川端の有名な言葉があるが、そのためか、戦後の混乱期を背景しているはずの「千羽鶴」でも、そういう社会背景のようなものは一切描かれない。では、ここに描かれているのが日本古来の悲しみなのかといえば、うーん、どうかなあ、である。
 「雪国」でも主人公島村の影は薄いけれども、この「千羽鶴」でも菊治の影は薄い。まだ二十代の青年のはずであるが、何だか疲れた中年男みたいである。優柔不断で受身一方。それで女性はといえば、いやらしいくらい現実的な行動派と、「感情教育」を担当する年上の女、そうでなければ変に理想化された聖母的な女性である。
 これを読むと、川端康成は女嫌い(そして多分、人間嫌い)だったのだろうなあ、という気がする。嫌いなのだけれども、どこかに「都合のいい女」がいることを夢見てもいるのである。
 日本古来の悲しみというのが、女は嫌いだけれども、自分をそのままでいさせてくれて自分に尽くしてくれるひとがいないだろうか、というものであるとは思えないが、女性が千羽鶴の風呂敷になったり、志野の茶碗になってしまって、人間関係をもたない美術品になってしまう世界とはどこかで通じるような気もする。
 「非人情」の世界への希求が、日本古来の悲しみなのであろうか?