\読書備忘録] 三浦雅士「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」

   新書館 2003年7月11日初版


 変な本である。300ページ弱の本の真ん中100ページが三浦氏と柴田元幸の対談。なんだか村上論と柴田論では独立した本は書けないので、合わせ技で一冊の本にし、対談で水増ししたような印象。
 最近の日本の若い文学志望者は、両村上、特に春樹村上を読んだあとに、柴田元幸訳のアメリカ文学にむかうというのが定番になっているというのが、本の導入になっている。以前から村上春樹の翻訳を柴田元幸が手伝っているということがあって、もともと二人は関係が深い。そして村上春樹が特異なのは現代アメリカ文学と地続きのところで小説を書いている点にあるのだという。
 村上は「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」を書いた時点ではまだ自分が本当に何を書きたいかわかっていなかった。それが「羊をめぐる冒険」以降はっきりとした。それは冥界下降譚なのだという。それ以降、「世界の終りとハードドイルドワンダーランド」も「ノルウェイの森」も「ねじまき鳥クロニクル」もみな冥界下降譚なのだという。なぜ、そうなるのか? 世界が無意味だから、なのだそうである。われわれの生は内部では意味付けられず、外部を持ち出すことでしか、それに意味付けできないからなのだと。とすれば、冥界下降譚とは文学の別名でもあるのだという。
 でもそんなことを言って何か意味があるのだろうか? 文学とは冥界下降譚だから魅力的というものなのだろうか? 面白くもなんともない冥界下降譚などいくらでもあるはずである。
 さて80年代に村上が多くの作を発表したあと、90年代に柴田が翻訳家としてデビューした。そして柴田が紹介したアメリカの現代作家は多くの点で村上と共鳴しあうものがあるという。そして柴田にもまた冥界下降譚志向的なところがあるという。
 アメリカにはグローバル・スタンダードアメリカとは別のメランコリーとしてのアメリカがあるのだという。村上がアメリカ文学からさぐりあてたものがそれであり、今柴田が紹介しているのもそれであるという。
 つまり、いいたいのは最後の点だけなのである。たかだか数十ページのエッセイで書ける程度のことを延々と一冊の本に引き伸ばしている。
 たしかに村上は漱石などについて語りはするが、源氏物語以来のあるいは万葉集以来の日本文学の伝統というものとはほとんど切れている。その点で三島由紀夫丸谷才一とはまったく異なる位置にいる作家である。それは村上龍も同じであろう。しかしそこにはアメリカのメランコリーとか冥界下降譚とかいった言葉ではとてもつくせない多くの問題が隠れているのだろうと思う。それは多分「物語」ということの周辺にあるものであって、村上は「羊をめぐる冒険」以降、物語作家になったのである。三島は多分物語作家にはなりきれなかったし、丸谷は自分を駆動する力をもつ物語を最初の二作で書き終えてしまった。
 これから出てくる作家は、日本文学の伝統などといったものとはまったく無縁なところで書くのであろう。