A・カミュ 「ペスト」

   新潮文庫 1969年初版


 これを読み返してみようと思ったのは、内田樹の「ためらいの倫理学」にカミュが言及されていたから。今から40年前、高校一年くらいの時に読んでいるはずなのであるが、何も覚えていないこと恐ろしいくらいである。覚えていたのは、主人公の医師リウーについてのかすかなイメージと、彼の「人類の救済なんて、大袈裟すぎる言葉ですよ、僕には。僕はそんな大それたことは考えていません。人間の健康ということが、僕の関心の対象なんです」という言葉。あとは老官吏グランの永遠に完成しない小説の冒頭「美しく晴れた五月の朝まだき、一人のなよやかな女騎士が、悠揚たる栗毛の牝馬に跨り、《森》の小道のなかを駆けめぐっていた・・・」だけである。
 ところで高校生のころにこの本を読んだときには、カミュ実存主義の文学者であり、この「ペスト」も<不条理>への闘いを描いたものだということになっていたように思う。さてそれでは実存哲学とは何であり、<不条理>とは何なのだろうか? 高校生のころ理解しているように思っていたところでは、<不条理>とは、人間の生には目的がないということであり、実存哲学とはそれを認めたうえでどう生きるかを問うものといったことであったように思う。でもそれは単に人間が動物であるというだけのことではないだろうか? 犬にも猫にもその生には目的がない。キリスト教的な人間理解が支配的であったところにおいては、人間の生には目的がないというのは衝撃であるのかもしれないが、もともとそんな信仰がないところでは、だからどうしたといった話である。だから日本人にとって<不条理>とか実存主義などというのはピンとこない思想であるはずなのである。第一、<不条理>などというから高級に思えるのであって、くだけて言ってみれば<ばかばかしさ>である。「異邦人」ももっともらしい題名だけれども、「よそもの」という訳であれば、あれほど売れたかどうか? それと「今日、ママンが死んだ」という翻訳の出だし。これも「今日、おふくろが死んだ」ではね。
 ということで<不条理>とか実存主義とかが流行語でなくなってしまった現在において、カミュがなお読まれる価値がある作者であるかということである。
 内田氏によれば、カミュの思想は「われわれは人を殺すことができるか?」という問題をめぐって展開されているのだという。初期のカミュによれば、それは肯定される。殺そうと思うものが自分の命をかけるのであり、それが卑怯な方法によるのでなければ。カミュは決闘を肯定するのである。カミュは「異邦人」において、殺人を肯定した。それは当時のおける対独レジスタンスと深く関係している。カミュの殺人の肯定はレジスタンスの肯定なのである。しかし、対独の戦争が勝利し、戦争においてドイツに協力した人間をさばく状況になると、カミュはその処刑に反対するようになっていく。「ペスト」はその処刑の否定の思想の展開なのであるという。
 なぜ処刑はいけないのか? それは正しいものが間違ったものを裁くものであるから。戦争においては、どちらの側が正しいかということはない。勝った側が正しいことになる。しかし勝った側が敗れた側を裁くというのは許されるのか? 世界において何が正しく、何が正しくないかということが確定されてしまっていいのか? むしろそれが確定されず、すべてが等価値である世界のほうが良い世界なのではないか? 何が正しいかが確定されることによってえられる秩序ある世界よりも、何が正しいかが確定されない無秩序な世界のほうが望ましいのではないか? 実存主義とは、生に目的がないということではなく、自分の外にあらかじめ与えられた<正しさ>がない世界で生きるということなのである。正義の名においてひとは人を殺すことを許されるか?という問いにカミュはノンと言った。しかし、何が正しいかが確定されないということは何をしてもいいということではない。神が何をなすべきかを決めるという発想も、神がいないからすべては許されるという発想も、そのどちらもカミュは否定した。このきわめてあいまいな立場を内田氏は<ためらいの倫理学>と呼ぶ。正義という言葉には何か<いやな感じ>がつきまとう、というのがカミュの思想なのである。自分の外部にある悪と闘うのではなく、自分が生きているということ自体がすでに他に悪をなしているのではないかという顧慮をもって生きること、それがカミュ倫理学であると内田氏はいう。
 これはパレスチナ問題からアメリカのネオコンまでの現在におけるきわめてリアルな問題にとどく問いである。
 「ペスト」において、<殺すな>という倫理は副主人公であるタルーによって代弁されている。主人公である医師リウーは、もともと正義とは無縁で、日々の仕事を誠実に果たしていく人間として描かれている。したがって内田氏のいうように、<殺すな>ということが「ペスト」の主要な主題であるしていいのかという点については留保が必要であろう。
 ペストはいかにも何か巨大な悪の象徴のようにも見えるので、この物語は大きな悪に対して人びとがともに闘う物語のようにも見えるけれども、ペストは自然に衰えて消滅するのであり、人びとの戦いはほとんど有効には機能しないままで物語は終わる。その点からいえば、これはたとえ有効でないことであっても、日々の勤めをはたすことが大事であることを述べた小説ともとれる。

 この小説はある観察者によるペストの記録という体裁をとっていて、全体の三分の二くらいまでは、冷静な報告が続き、物語が動き出さない。その点で小説としての感興に乏しく、小説としては成功しているとはいえないように思えるが、そのような書き方自体が、正義を否定し日々の仕事を淡々とこなしていくという作者の倫理自体を反映していて、作者自体が物語り的な面白さ自体に何か<いやな感じ>を感じ取っているためにそうなっているのかもしれないので、この点はなかなか判断が難しいところである。
 カミュの倫理は<決闘>の倫理であるから、下手をすると<やくざ>の倫理にもつながりかねない(実際「自己陶酔しない東映やくざ映画」といったおもむきもないことはない)。そのせいか、この小説はほとんど男だけしかでてこない。女性はペストで閉鎖された街のそとにいる。例外は医師リウーの母親であって、編物をしながら男達をじっとみまもっている。その点でも東映やくざ映画的である。カミュは男だけの世界が好きは相当マッチョな人間だったのではないかと思う。

 今回新潮文庫で読んだが、昭和44年発行となっている(平成15年で63刷)。高校時代に読んだ文庫本が黄ばんだ状態で偶然残っていたが、昭和30年発行(昭和35年10刷)となっている。その時は二分冊で、現在は一冊。同じ宮崎嶺雄訳であっても、訳文もかなり違っている。単に漢字がかなになっているというようなことだけではなく、文章自体が最初の節からかなり異なっている。文語的な表現を口語的にしているところが目立つが、同じ文庫版といっても版によってかなり異なるものであることを発見した。引用する場合などどの版によったかということが大事であるかなと思った。