S・キング「リーシーの物語」

  文藝春秋社 2008年8月
  
 S・キングの翻訳された長編としては最新のものということらしい。なにしろキングの長編であるから、上下巻あわせて700ページほどを4日で読んでしまったが、今までに読んだキングの作品の中では、「骨の袋」と「ドロレス・クレイボーン」に一番肌触りが近いものであるように思った。
 ピュリッツアー賞をとった有名作家が死に、その奥さんが故人を回想するというのが主筋であるが、そこに作家の未発表原稿をねらう変質者が副筋としてからんでくる。本書にものたりないところがあるとすれば、「ミザリー」を想起させるこの副筋の変質者が単なる変質者であって、いたって柄が小さいということがあるかも知れない。もっともこれを本格的な「悪」の体現者にしてしまうと、有名作家の回想にあらわれる「悪」の問題の印象が散漫になってしまうということがあるから、止むをえないのかもしれないが。
 キングの父はキングがまだ小さいときに蒸発していなくなってしまい、以後は母親に育てられたということになっている。しかし本当は、蒸発ではなく、父は母に殺されたのではないかという疑念がキングにはあるという話があって、「母に」ささげられた「ドロレス・クレイボーン」にはそれが色濃く映し出されている。本書もまた父殺しが主題であって、そのテーマのヴァリエーションであることは明らかであるが、そこに「狂気と悪」の問題が加わって、創作とは「狂気」に繋がるのではないかというテーマと重奏されることにより、物語が重厚になるという仕掛けになっている。
 翻訳者は苦労しただろうと思う。三部構成の「第一部 ブール狩り」、第二部「SOWISA」、第三部「リーシーの物語」で、「ブール」とか「SOWISA」ともに造語なのである。SOWISAは Strap On Whenever It Seems Appropriate. の頭文字を集めたもの。ブールは Bool であるが、翻訳を読んでいるかぎり後半も相当いかないとそれが Bool であることはわからない。それまではカタカナ表記で「ブール」である。これは、Pool と Book をあわせた造語なのではないかと思う。「言葉の池、物語の池、神話の池」というところの「池」に「プール」とカナがふってあったりする。作家である主人公(とっていもすでに死んでいるのだが)が霊感を求め発想を求める根幹にするのが、その Pool であり Bool で、Bool は異世界あるいは冥界でもあるという設定が本書を成立させている構造である。単なる「言葉の池、物語の池、神話の池」、文学と言葉の伝統の集まったプールであるなら、それが異界に通じる必要はない。しかし、この「ブール」は「狂気」が通う世界でもあるという設定になっていて、それだからこそ冥界ではない異世界ともなる。すると当然、物語を作るということは異世界を覗くことなのではないか、あるいは異世界を作り上げることなのではないか、という「創作の秘密」物語という性格も、本書は持つことになる。
 キングは自分が物語を書いていて、なぜそのような物語ができてしまうのか自分でもわからなくて、不思議なのであろう。「小説作法」でキングは、作品を書くというのは、地中に埋もれた化石を発掘すること、と言っている。異世界を見つけ出すといっても同じことである。本書では「ブール」がその化石が潜んでいる場所であるとされている。
 「ブール」という言葉にあるイメージを読者に持たせることに、本書ではとにかくも成功しているのではないかと思う。それにくらべると「SOWISA」という造語をわざわざしなければいけなかった理由はよくわからない。「ここだと思ったら即実行!」などというのはいたって陳腐なモットーで、わざわざ掲げるほどのものとは思えない。これはTABITHAの字謎なのだと思う。T→S、A→O、B→W、TH→S、IとAはそのまま。そういう字謎をつくってまで「SOWISA」などという造語をするのは、これが奥さんのための本であることを強調するためである。
 本書は「タビーに」という献辞をもっている。タビーは奥さんであるタビサの愛称である。有名作家のその奥さんという設定なのであるから、本書を読んでわれわれが真っ先にする下世話な想像がキングとタビーという夫婦の関係であるのは止むをえない。わたくしは昔からキングと奥さんのタビーの関係に、言い方は悪いのかもしれないが、何か異常なものを感じていて、夫婦の間の愛情などというものよりももっと濃密な共依存とでもいうべき関係をどうしても感じてしまっている。二人で一人前というか、相手がいないと生きていけないというか。「シャイニング」にはアル中時代のキングの体験が色濃く出ていると思うけれども、そこでの夫婦関係にもそれを感じた。閉じているのである。本書で描かれた夫婦関係だって異常である。そとの世界はすべて借り物の世界であり、夫婦二人だけの世界だけが本物といった感じなのである。
 キングの本があれだけ売れる理由の一端もそこにあるのではないかと思う。キングのストーリー・テラーとしての才能、物語作家としての才能ということもあると思うけれども、小説という個人をえがく道具を使ってあえて家族をあるいは擬似家族を書き続けているということも大きいと思う。「呪われた町」も「シャイニング」も「ペット・セマタリー」も「IT」もみなそうではないかと思う。現代という、家族といったものへの信頼が急速に失われてきている時代に、あえて家族を信頼する物語を書いていること、それがとても大きいのではないだろうか? キングの作品の中で例外的に「アトランティスのハート」が文学的な印象をあたえるのは、それがキングの作品としては珍しく「個人」の側にたった作品だからなのではないだろうか?
 「小説作法」でキングが自分の主題としてあげているものの中に、家族の問題は入っていない。キングにしてもテキストを作っているのであって、それをどのように読むかは読者の自由ということではあるが、現代の小説でこれほど夫婦が相互に相手を必要としている設定のものはきわめて珍しいのだから、それを主題と考えないというのはちょっと不思議である。
 本当のことをいえば、キングとしてはこれは奥さんのタビサだけが読めばいいと思っているのかもしれない。それが証拠に、本書で主人公の作家が奥さんに書き残した「物語」は奥さんが読むと、そのまま異界に放置されるのである。
 

リーシーの物語 上

リーシーの物語 上