養老孟司 「形を読む 生物の形態をめぐって」

   培風館 1986年10月15日初版


 「唯脳論」を読んでいたら、これは「形を読む」の続きであると書いてあった。それで17年ぶりに読み返してみた。養老氏にとって「ヒトの見方」につぐ二冊目の単行本であるらしい。養老氏の本の中ではあまり人気がないらしく、文庫化もされていない。しかし滅法面白かった。
 「バカの壁」の初出もここであることがわかった。ただし「馬鹿の壁」。
 科学とは「自分と対象だ」というのが、この本の主張である。通常、科学とは対象を研究する学問であるとされている。それを研究するヒトは科学の中に含まれない。客観的な知識というやつである。
 しかし養老氏が選んだ解剖学においてそれなら対象は死体か? それの何を研究するのかを決めるのは自分である。研究テーマの選択においては自分がでてくる。しかし自分が選んだテーマの研究は客観的でなければならない。それは本当か? 死体を自分の理解できる形の「像」とすること、それが解剖学ではないか? しかし自分の像が他人にも伝わることを保障するものは何か、それはヒトが、「理性的に」考えることであり、つまり精神のはたらきである。それを保障するものが、脳の構造の共通性なのである。→「唯脳論
 物理学や化学はモノを扱うという。しかし化学者があつかうものは分子である。分子は目にはみえない(と書いてあるが、最近は観察できるのかもしれない)。実は化学者は論理によって分子というものを推定するのである。化学者は記号をあつかう。数学者も同じ。それは分子が目にみえず、数学の対象も目にみえないからである。解剖学は言葉を用いる。それは相手が目にみえるものだからである。
 「西洋」は「階層性の論理」である(ラブジョイ「存在の大いなる連鎖」)。「充満の原理」と「連続の原理」。それに大して「輪の論理」はどうか?(和をもって尊しとなす?)
 学問の一番難しいところは、何がわかったらわかったことになるかということである。
 形を見るのにも様々な立場がある。しかし、相手の形は本来一つなのである。それは見るヒトの観点によって違ってみえてくる。(ハンソン「観察の理論負荷性」、ポパーの「バケツ理論とサーチライト理論」) そうではあってもそれはある定まった脳の機能形式にはしたがっている。それではひとがもちうる主観の種類には何種類あるのか、それを数え上げ、分類することはできないか? →「唯脳論」への道。
 
 ここで扱われていることはおそらく分類すれば、科学哲学である。日本で自前で科学哲学を考えている数少ない人間であり、しかも哲学者ではなく、実地の解剖学者でもあるというのが養老氏の魅力なのであろう。
 科学哲学についてはわたしはポパーの信者なので、対象の客観性ということについて、養老氏よりは信じていると思う。養老氏によれば、われわれがあることを理解でき、それを他と共有できるのは、ヒトの脳に共通の機能形式があるからである。だとするとわれわれと同じ脳の機能形式をもたないものには伝達が不能であることになる。これがバカの壁でもあるのだが、もしわれわれの脳とまったく機能形式の異なる「脳」をもった知的生命が存在したとしても、それらの脳の機能形式をわれわれの脳の機能形式に翻訳することは可能ではないかと思う。それを可能にするのは外界に存在する自然法則ではないだろうか? それが物差しになるのではないだろうか? 自然法則をわれわれはわれわれに理解できるように、すなわち脳の機能に即して表現しているが、自然法則が脳の機能に対応しているということではないと思う。自然法則はわれわれの外にあって、それをわれわれが理解できている、ということであり、他の知的生命体がもつ自然法則の表現はその知的生命体の「脳」の構造にしたがっていて、そのものをわれわれが理解することは不可能であろうが、にもかかわらず、それらが共通のあるものをあつかっているのであれば、その共通のものを通して翻訳することは可能なのではないかと思う。そうであるなら対象の客観性はやはりわれわれの外にあるのではないだろうか?
 しかし、われわれが知的であるというのはどういうことなのだろうか?
 養老氏のいうようにわれわれの脳は形態的には何十万年も変化していない。何十万年の脳と現在の脳は変らないのだが、虚数などというものを知っている人間はたかだかこの数百年に生きたものだけである。虚数はまったく空想の上の数だが、それにもかかわらず量子力学の式の中にあらわれる。虚数はわれわれの脳の機能形式が現在のようであるからわれわれに与えられるのであろうか? 量子力学の式に表れるということは現実に存在するということなのだろうか? 量子力学そのものが量子の世界をたまたまわれわれの脳で理解できる形式であらわしただけのものなのであり、本来可視の世界を理解するためにできている我々の脳の形式では理解できないはずのものを、無理やり理解可能なかたちに表現しただけのものなのだろうか?
 数学はわれわれのもつ合理性のひとつの極致なのだから、問題はわれわれのもつ合理性とは何か? 理性とは何かということに帰着するように思う。まさに純粋理性批判。養老氏の説がカントの説とどこかで通じるということはどこかで書いたような気がする。