養老孟司 「養老孟司の<逆さメガネ>」

   PHP新書 2003年8月25日初版


 本のタイトルが「養老孟司の<逆さメガネ>」である。タイトルに名前が入ってしまうところが凄い。「バカの壁」が売れて超有名人になったということなのだろうか? 「バカの壁」はしゃべったことを本にまとめたと書いてあるが、本書にはそのような注記はない。しかし最後のページに編集協力としてあるひとの名前が書いてある。で、文体?といえば「神秘体験だなんていいやがって、なにをバカなこと、考えてんだ。一人でそう怒ってましたが、若かったですな。もう怒りません。人間とはそういうもんだと、いまでは思っています。私も歳ですもの。あれを神秘だと思いたいのも人間です」である。これでは、どう考えてもしゃべったことを編集して本にしたとしか思えないが、どうなのだろう。あるいは誰かが養老氏の本からいくつかのテーマを選んで、適当にしゃべり言葉に直し、それを養老氏が手を入れたというようなものなのだろうか?
 とにかくこういう横丁の隠居のクダみたいな文体で語る内容はといえば、養老氏によれば教育論なのである。とにかくも、「唯脳論」のころにくらべれば、格段に語り口が平易になったことだけは確かである。

 第一章は子育ての話。例によって、世界全体が都市化にむけて暴走している、というところから話がはじまる。都市化とは「ああすれば、こうなる」という世界である。しかし一方、自然とは、そのようなコントロールが効かない世界である。都市の中にある自然、それが子供なのである。子供はおもうようにならない。しかし都市化した人間は、子供もコントロールしたい。子供は「さずかりもの」ではなくなり、「産むか産まないか自分で決めるもの」になってしまった。そして、産むか産まないかを考えると、子供という「ああすれば、こうなる」に服さない存在は持ちたくない。だから少子化である。

 というのが養老説であるが、トッドの「帝国以後」によれば、少子化と関連するのは教育の普及である。教育が普及すると女性が目覚め、女性は子供を産むか産まないかを選択するようになる。その結果子供がへる。都市化と教育の普及は基本的にパラレルなものであるということはできるであろう。教育の普及は都市ばかりではなく、田舎でも平行してすすむであろう。だからトッドの見方のほうがより一般性が高い。もっとも養老氏によれば、日本の田舎も都市化しているということになるのだろうが。いずれにしても、教育の普及を阻止することはできないであろう。とすれば都市化の流れを阻止することもできまい。養老氏も、もちろんそれはわかっている。ただわれわれが都市化の中にいるということに自覚的であれということであろう。養老氏は日本人全体を参勤交代をさせればいいというが、まさか本気ではあるまい。
 養老氏は脳化した都市の中での最大の自然は「死」であるという。それだからこそ、都会では「死」を日常の場から隔離して病院に押し込めてしまうのだという。それならば病院で働いていて、日常「死」に接している人間は、何かそれとは違った人間になるか? 自分の経験にてらしても、あまりそういうことはないように思う。われわれの都市化は簡単な手段で中和できるほど表層的なものではなく、もっと骨がらみのものであるに違いない。
 「ああすれば、こうなる」に服さない存在は、もちろん子供だけではない。たとえば結婚している人間ならば女房であり、旦那であろう。だからもちろん離婚が増える。親もまたそうであろう。歳をとってボケた親なども自然にかえってしまったのである。全然いうことをきいてくれない。そういうものは「ああすれば、こうなる」の立場からは困る。それで見えないところに押し込めてしまう。病院はその収容所と化しつつある。とすれば、病院の問題は都市化の問題でもあることになる。そして、われわれはそういう自然にもまたいやというほど接しているのであるが、さりとて、そのことでものの見方がかわったようには思えない。

 第二章 大学紛争はなぜおこったかを論じる。
 養老氏が大学紛争で感じたのは、「団塊の世代」というのは「民主主義」と「村社会」が結合した世代なのだということだそうである。村社会はある意味で傘連判にみられるように徹底して平等主義的であった。戦後民主主義の平等とは村社会の平等なのであるという。
 大学紛争はあれだけ大きな動きであったのに、あれはなにであり、どうしておこったのかという分析や仮説を、その主役であった団塊の世代が真剣に提出したということはないように思う、と氏はいう。彼らはあれだけ本気でやったのに、そのあとに何も残らないというのでは、不幸ではないか?

 わたくしはまさにあの紛争の渦中にいた人間の一人であるので、少し、このことについて考えてみたい。養老氏はわたくしより丁度10歳年上であり、当時<いわゆる大学側>の一番若手という位置にいた。したがって本書で書かれているのも<教える側>から見た「大学紛争」である。ところで、「東大闘争」の概説あるいはその意味付けとしては、わたくしが知っている限り、橋本治氏(わたしより一歳年下)の「ぼくたちの近代史」(河出文庫)のp23〜70にまさるものはないように思う。橋本氏は紛争?闘争?を<横から>見ていた立場である。氏は、あれは「大人は判ってくれない」だったのだという。で、何をわかって欲しかったのか? それは「”大人は判ってくれない”と言って僕達がドタドタ叫んでいる、そのことを判ってほしい!」だったのだという。学生が反乱をおこすためにはどんな理由でもありさえすればよかった。そのこと自体は間違いではない。しかし、その後で「この反乱が、何を目的とするものだったのか」を考えなくてはいけなかったのに、「反乱おこして満足」してしまい、「あの二年間情動発散したなあ」ということになってしまったのが問題である。さて、その反乱をおこした世代は「原っぱ」でドタドタ遊んで完全燃焼した世代なのである。大学闘争とはその再現なのである。
 いくらなんでも、「原っぱ」のちゃんばらと大学闘争を一緒にするなんて、という意見もありそうに思うが、基本的にあれは非日常の祝祭空間を作ろうとしたものなのだと思う。演劇というのはその中にいると中毒をおこすくらい魅力的なものらしいが、そこでは日常と異なる異次元の世界を体験できる感じがあるらしい。そういう空間を作ることが目的だったので、あの闘争の目的は少しでも長く続くこと自体であった。であるから、あらゆる提案にノーということになった。はじめから運動が続くことだけが目的なのだから、なんらかの解決などということははじめから考えてもいないわけである。その祝祭空間を「原っぱ」と表現すれば確かにその通りなのであろう。わたくしの祝祭空間という解釈では、特にわれわれの世代においてああいう運動が見られたということへの説明がつかない。「原っぱ」理論は、原っぱというものを確かに知っているわたくしにとっては説得的ではあるが。
 トッドの「帝国以後」によれば、教育が普及してくるある段階において、ひとびとはある種の熱狂をおこす。フランス革命も、ロシア革命も現在のイスラム圏の動きもみなそのようなものとして説明できるという。トッドは日本でそれに相当するものとしては、明治維新から昭和前半の動きを指すであろう。トッドのいっているのは初等教育の普及である。一方高等教育の普及についても、それがある段階になるとある種の運動のようなものを惹起するということはいえるかもしれない。三浦雅士のいう「青春」である。人生の猶予期間をもった若者の大量発生。
 あれは結果としてみると、我々団塊の世代がその後20年くらいかけておこなったことに対して、<そういうことには反対!>と、あらかじめノーをいっておいたのである。「バブル」の時代をつくったのはわれわれの世代なのであるが、これから自分たちがそうなるのではないかと感じていたものを、否定しておいたのである。それにもかかわらず、あらかじめ否定ておいたまさにそのことを、そのあとわれわれはおこなったのである。団塊の世代が世に出てから営々として20年間おこなったことが、結果としてバブルといういいかたをされて否定され崩壊してしまった今となっては、われわれの世代のしたことは何だったのかということになる。
 それが養老氏のいう村社会の問題、あるいは共同体の問題とかかわる。「原っぱ」での遊び仲間とはわれわれは「共同体」を築いていたのだろうか? 学園闘争は共同体形成のためのものであったのであり、それが挫折したあと、会社のなかに村社会としての共同体をつくろうとしていったのだろうか? 会社という村社会は一種の祝祭空間であったのだろうか? そしてつくりあげた共同体が、リストラの嵐の中で急速に崩壊しようとしているのだとすると、それは祝祭空間が消失しようとしていることを意味するのだろうか?
 養老氏は、われわれより十歳年上である氏の世代においては、そのような村社会の論理、共同体の論理はなかったという。そうなのだろうか? 養老氏個人においては、徒党を組む、共同体に参入するという意識はまったくなかったであろう。しかし、それは養老氏という個人においてはそうであったとしても、氏の世代のものとして主張できるのだろうか? というのが浮かぶ疑問である。
 戦前の村社会の典型の一つが陸軍内務班であろう。大日本帝国の崩壊によって、養老氏の世代においては崩れた戦前的なものが、われわれの世代においてはまた復活したのであろうか?
 そこで少し自分のことを述べてみたい。
 わたくしが大学紛争?闘争?の渦中に入ったのは、大学3年(医学部1年)の時である。高校高学年から大学教養学部にかけてのいささかの読書によって、自分というのはこういうものであるのかなあと思っていたのは<第三の新人>的なもの、吉行淳之介的な感覚であったのだと思う。今となっては吉行的なものとして何を感じていたのかうまく思いかえすことができないけれども、<自分がマイナーであるという意識><他人との濃厚な人間関係の忌避><軍隊的なものへの嫌悪><集団的なものへの嫌悪><田舎的なものへの嫌悪>とかいったものが混ざり合ったような何者かであったように思う。今から思うとすべて、何々がいやというネガティブな規定ばかりであるが、とにかく吉行氏の文学が示しているように思えた都会的な何かであったのであろう。ちなみに江藤淳氏は「成熟と喪失 母の崩壊」の中で、吉行氏を荒廃した人工的環境と化した今日の都会と都会生活者をそのまま批判なく肯定したものとして厳しく否定している。また吉行氏をふくむ第三の新人たちは中学生的感性を武器にして「子供」でありつづけることを決めた「大人」、子供大人たちなのであるといっている。そういえば橋本治氏は原っぱという「小学生」「中学生」的なものに積極的な価値を見出すのであり、江藤氏のいう「治者」などというものにはまったく価値をおかないひとである。
いずれにしても、わたくしの中においては村社会=田舎であって、都会はそれに抵抗するものなのである。で、そういう自分が、いきなり紛争?闘争?という<自分たちがメジャーであるという意識><他者と濃厚な関係を築きたいという希求><軍隊的?集団的?なものへの欲求>という世界に巻き込まれることになった。困ったのは、そういうわたくしの感覚がまったくまわりの人間に通じないことであった。いわば相手はX軸、こちらはY軸の上で議論しているという感じで、原点というただ一点では交わることがあるのかしれないけれども、議論は平行線どころか、そもそも何を問題にしているかというレベルがまったく一致しない感じで、ほとほと困った。というか、こちらはある前提から議論をしているのであるが、相手は話には前提があるという発想自体がないひとなのである。
 それで議論をするためには感覚的なものだけでは駄目であり、また自分の中で規範をつくっているなにものかを自分の言語で表現できるようにならなければ駄目であるということを感じた。それからいささか系統に本を読むようになったのだと思う。それで福田恆存から吉田健一にいたる本を読んでいった。
 わたくしは紛争?闘争?の渦中で明らかに自分がマイナーな存在であると感じていた。しかし、そこで言われていた現状の否認ということには共鳴していたと思う。ただ他人を山車にして、自分の楽しみをえるということは絶対にできないと感じていた。まさに養老氏はその直接の被害者であったわけだが、あの当時、研究室封鎖ということがおこなわれた。この非常時に研究などしているということ自体がゆるせない。研究などできなくしてしまえば、いやでも大学の現状、現在の日本がどんな状況であるか考えるだろう、という発想である。これは戦時におしゃれしているひと、化粧しているひとを許せなかった愛国婦人会と同じ発想なのだと思う。その基底にあるのは嫉妬心である。しかし、そこに嫉妬心をみてしまう人間と、いくら議論をしても嫉妬心などということが頭のかたすみにも思い浮かばないひとがいて、そういう人間同士が議論をすることは不毛なのである。<他人のため>を標榜して、実は<自分の楽しみ>を得ているというのが、紛争?闘争?の本態であったのだと思うのだが、本気で自分は他人のために犠牲になっているのだと思い込んでいるひとがほとんどであった。
 村社会の平等を下から支えているものは嫉妬心であろう。みんなが貧乏なのは許せるが、誰かが抜け駆けしてひとりだけ金持ちになるのは許せない。そういう足のひっぱりあいが村の平等を作っている。他人のことが気になってしょうがない心情が村社会をつくる。チャタレイ裁判の時に吉田健一が証人として法廷にでて、猥褻とは?ときかれて、他人の情事をあげつらう精神をいうと答えたというが、そうであれば、村社会とは猥褻な社会なのである。都会のいいところは無名性である。<隣は何をするひとぞ>こそが都会のよさである。自分は自分、他人は他人、それが都会である。余計なお世話やおせっかいがないのが都会である。<個人>が住めるのは都会だけではないだろうか? そもそも文明とは都会のことなのである。
 ということで、わたくしは都会以外では生きられないと感じている人間なのであるが、世界中で進行している都市化の問題と、日本だけ?においては都会でも残っている村社会の問題、その両方の問題が大学紛争をきわめて入り組んだ、理解しづらいものとしたのであろうと思う。
 橋本氏も書いているように、もともと東大闘争とは医学部の学生処分に端を発したものであり、その処分に事実誤認があったことが問題を拡大させたのであるから、教授会が「すみません」といえば終わったことであった。しかしその教授会は絶対に「すみません」がいえないのであって、それは教授会が共同体になっているからなのである。橋本氏がいうように、「でも結局その東大の教授会が青医連(青年医師連合・・・その当時の若手医師の組織)を何故嫌ったのかというと、あれですよ、「あいつらは共産党(アカ)だ」っていうそういう嫌い方」ということなのであろう。アカとは共同体を侵すもの、あるいは共同体の論理をまるで理解しないものの云いなのである。河上徹太郎氏がどこかで書いていたが、氏が山荘で暖炉に薪をくべている。そうするとどうしても火がつかない薪が一本ある。それに業を煮やして、河上氏は「まるで共産主義者だ!」と叫ぶ。とんでもないものいいであるが、氏によれば、共産主義者は頭がいい、しかしまわりになじめない、溶け込まない、総じて人情不感症であるというのである。この人情と共同体の論理が同じものなのか、違うものなのか、はなはだ難しい問題である。なぜ処分が撤回できなかったのか? そんなことをすれば、仲間の教授の誰かを非難するようなことになる、そんなこと人情からいってできますか、ということであろう。そして全共闘諸君もまた義理と人情の東映やくざ映画が大好きだったのである。<とめてくれるなおっかさん せなの銀杏が泣いている 男東大どこへいく> 橋本治にはすべてわかっていたのである。
 養老氏の論理が屈折しているのは、氏が散々苦労して相手してきたものが、村の論理、世間の論理だったのであり、一方氏の職業である解剖学を否定的に見るもが都市化の論理、人口の論理、脳の論理であったということにあろう。その都市の論理に対して、氏は「自然」ということをいうのであるが、村の論理というのは、おそらく江戸時代の農民の生活から発しているのであろうから、それは都会のものではなく田舎の論理であるという点にあろう。

 大学紛争?闘争?はなぜおきたのか? まだ大思想が残っていたこと、マルクス主義にもまだ後光がさしていたこと、日本が経済成長の結果大量の働かない若者を養う余裕ができていたこと、わかものが漠然と管理社会の予感を感じていたこと、それへ抵抗するものとしての<祭り>への希求があったこと、それらが相互に関連しているであろう。橋本氏は、われわれ団塊の世代が原っぱで<祭り>を経験していたことがその根底にあるという。養老氏は、村社会がそこで蘇ったのだという。そしてその当時学生たちがかかげたスローガンはあとになってみれば八紘一宇、撃ちてしやまん、一億玉砕、鬼畜米英となんらかわるものではなかったという。かつて竹槍でアメリカにむかおうとした。その20年後に投石で日本政府にたちむかおうというものが出現したわけである。戦争中は本気でそのスローガンを信じていたのではないだろうか? あとから思うと滑稽にしか見えないが、本気だったのである。大学闘争もまた当事者は本気で信じていたのである。あとで頭が冷えると不思議で仕方がないが。なぜ自分たちは正しいとあれだけ信じられたのだろうか? 養老氏はそこで筆を擱くが、まさにそれは脳の機能なのであろう。あるいは養老氏にいわせれば、脳の機能について不十分にしか理解していないからということになるのであろうか? 自分の外部に正しさがあるという思い込み、そういうことを考えているのが自分の脳であるということに思い至らない浅はかさ、そういうことなのであろうか?
 しかし、日本ではもうあのような熱中はおきないような気がする。かつて日本では敗戦後、もうあのような熱中はこりごりである、もうこんなことはおきないと思ったと思ったひとが多かったであろう。だとすればまたおきる可能性もあるのだろうか? バブルと同じで何年かすると性懲りもなくまたくりかえすのだろうか?
 わたしとしてはトッド説を信じたいが・・・。

 第三章:型の喪失について
 サミットなどで日本の首相は様にならない。それは明治以来の都市化によって日本人が身体の型を失ったからである。というのだが本当だろうか? それならばサミットに参加する西欧諸国は都市化していても、まだ身体の意識があるということなのだろうか? 養老氏によれば、われわれが身体の型を失ったのは、都市化によって身体というのもを忘れてしまったからなのだか、それは西欧においても日本同様におきてもいいはずだが・・・。

 以下、機能体と共同体についての話が延々と続くが略。共同体を肯定するか否定するか、養老氏は迷いに迷っている感じである。たぶん、このあたりは山本七平氏と小室直樹氏の仕事と連続するのであろうが、日本がうまくいったのも駄目になったのもすべて共同体のせいであるとすれば、それについて一元的な答えなどでてくるはずはない。日本のどの部分を評価し、どの部分を否定するかによって共同体についての見方もまた自ずと変ってくるのであろう。
 共同体はそれこそ世界のどの社会にでも、どの国にでもあるはずである。しかし、日本においてはそれがとりわけ大きな問題になる。それは、共同体に対立するものとしての個人がきわめて曖昧なためであろう。霧箱に捕捉された量子のように、共同体というものの中に入ってはじめて個人というものもあきらかになる。個人があって共同体ができるのでなくて、共同体があってそこに個人の参入を許すのである。個人が生きる場所が共同体の中にしかない。あるいは共同体のなかにいる個人しか評価されない。そういう中で会社が共同体であることを放棄して、機能体であることを追及しはじめたらどうなるか? 現在の会社のトップは共同体としての会社の中で出世してきた人間なのである。機能体としての会社の中で出世してきた人間ではない。彼は共同体の中のふるまいにおいて優秀だったのである。機能体としての会社で有能であるという保障はない。そういう人間が会社を共同体から機能体へと転換する舵取りをする。はたしてそんなことができるのだろうか?
 養老氏は「機能体と共同体」についてもう一冊本を書くといっている。これは山本七平氏があれだけ浩瀚な本を書いてついに論じ切れなかった問題である。ひとはあることについて自分の態度をきめようとすれば、一冊の本を書くのが一番いいのであるが・・・。果たしてどんな本になるのか、期して待つべしということであろうか?

 ところで今ニューヨークなどの大停電が報道されている。都市の基盤がいかにあやういものの上に成立しているのかということであろう。都市を殺すに刃物はいらぬ。電気一つを停めればいいというわけである。