養老孟司 「いちばん大事なこと − 養老教授の環境論」

   集英社新書 2003年11月19日


 養老氏の本がやたらと出る。あとがきにも書いているように「バカの壁」が売れたので、いままで約束した本の完成をやたらと催促されるためらしい。
 
 本書によれば、養老氏の本業は虫取りである。それなのに虫がどんどんと消えつつある。それはわれれれの生態系が壊れつつあるからである。われわれは生態系のなかで生きている。環境問題こそがわれわれのいちばん大事なことである。しかし、環境問題については小手先の対策は通用しない。われわれの思考を根本のところから変えなければいけない。「ああすればこうなる」思考が蔓延するようになったのは、人間が自然とつきあわなくなったからである。環境問題とはわれわれが何かを手に入れたことに対するつけである。
 それで環境への負担を軽減するには、生活様式を戦前のように戻せばいい。しかしそれが困難ならば、せめてわれわれの生活に古来の智恵である「手入れ」という感覚を持ち込むことである。そのためにも自然とせっするようにせねばならない。国家が参勤交代を国民に強制せよ。

 というのが養老氏の主張である。それで、参勤交代論について考えてみる。
 養老氏もいうように過疎化は進行する一方である。それはひとびとに田舎で暮らす気がないからである。「私は都会にしか住みたくない。田舎暮らしなんか、真っ平ごめんだ。そういう人がどのくらいいるだろうか。あんがい少数派ではないか。」と養老氏はいう。しかし、わたくしは田舎暮らしはいやなのである。真っ平ごめんなのである。養老氏もいうようにそれは変ないいぶん、成り立たない主張である。お前の食っているものは誰が作っていると思っているのか? そうなのである。誰かが作っている。しかし自分では作りたくない。それはエゴイズムである。その通り。身勝手である。しかし、いやなものはいやなのである。
 村上龍の「誰でもできる恋愛」を読み返していたら、そこで龍さんは「昔はひどい時代だった。のどかではあったけど、いいことなんかなかった。・・・今のほうが、圧倒的にいい時代だ。昔に戻るなんてとんでもないことだ。今のこの世の中のほうが、まだ昔よりは、はるかにいいと、まずそう仮定してから物事を考えるべきだ」といっていた。これなどは、生活様式を戦前に戻したほうがいい、という養老氏とは正反対の見解である。龍さんもいうように、「自分だけは、何とか充実した人生を送れるように努力できるひと」は少数であろう。そういうことができないひとはおちこぼれて最低の人生をおくるのであろう。しかし都会には、そういう充実した人生の可能性だけは見えていて、それに惹かれてひとは都会に集まり、田舎は過疎化していくのであろう。それなのに田舎の暮らしを一年の内に3ケ月強制することなど本当に可能なのだろうか?
 養老氏も本気で提案しているわけではないのだろうから、あまり目くじら立てて議論することもないのかもしれないが、もともと養老氏が環境をいうのも、環境がシステムであり、すべてがすべてと関係するのだから、ある一つのものが失われるということが他に連鎖的に影響をあたえて、どういう変化をおこすか予想さえできないということがあるからである。今我々がしている生活も、それはそれで一つにシステムとなっている。国民のすべてが一年の内の四分の一生活の場を変えるというようなことをすれば、そのシステム全体に途方もない影響をあたえることは自明であり、その結果がどのようになるか予想することさえできない。参勤交代論は養老氏の環境擁護論の論理自体からも否定されてしまうように思う。
 養老氏は「手入れ」論を主張する。「農業以前に戻れ!」的な環境原理主義(縄文に戻れ!)にも反対し、都市化にも反対する。しかし「農業は人類の原罪である」にもあったように、「手入れ」ということがすでに環境を制御することであり、環境を制御できるということは、われわれはまわりの種と共存しなくてもよくなるということである。「手入れ」を認めることはそのまま環境破壊の容認につながってしまう可能性が高いのである。

 それならどうしたらいいか? どうしようもないのであろう。われわれは環境破壊を続け、1年後か、10年後か、100年後か、1000年後か知らないが、滅びるのであろう。われわれにとって大事なのは、滅びるその時まで正気でいることではないのだろうか? それが養老氏のいう「見るべきほどのものは見つ」という生き方なのではないだろうか?
 養老氏は「ああすればこうなる」という思考法が、都市化がもたらしたわれわれの根本的欠陥なのであるという。未来を制御できるという発想が間違いなのであるという。そうであるならば「参勤交代すれば日本はよくなる」というのもまた、「ああすればこうなる」式の思考なのではないだろうか? もちろん養老氏はそんなことは百も承知なのであろうが、日本からどんどん虫がいなくなるのに腹がたって、ついついそんなことをいいたくもなってしまうのであろう。

 今の若いひとは将来年金がもらえないとか、そんなことが話題になっている。今とそれほど変らない社会が20年先、30年先にもあると思っているのである。まだまだお上に面倒をみてもらうつもりなのである。
 しかし、今が戦前よりいいとしたら、別に年金がもらえるようになったからではない。「世間」から離れて孤独であることがずっとしやすくなったからである。「世間」という「村」から自由になる道がずっと開けてきたからである。養老氏だって東京大学という世間から解放された喜びを随所で語っている。田舎というのは「村」なのであり、そこから逃げたいという動機がわれわれを駆動してきた。だが、田舎のかわりに会社という「村」ができてしまった。それもようやく壊れようとしている。いいことと悪いことはワンセットである。いいことばかりを得ることはできない。われわれがようやく「世間」から逃れることができるようになってきたとすれば、その代償としてわれわれが滅びの道を歩まざるをえないこともまた甘受すべきではないだろうか?
 それとも滅びが確実であれば、正気でいることができなくなってしまうのだろうか? しかし、われわれは誰も確実に死ぬのである。それがわかっていれば正気でいられるはずはないという主張は、われわれの周囲を観察することによって、事実によって否定されるはずである。