河合隼雄 中沢新一 「仏教が好き!」

   朝日新聞社 2003年8月30日 初版


 わたくしは宗教とはまったく縁なき衆生であって、かって来世などというものを一度たりとも信じたことがない。確か高校の初学年のころに、はじめてプラトンイデア説を知ったとき、なんとバカげた説であろうかと思ったくらいであるから、筋金入りの唯名論側人間であって、実在論に親近感を感じたことがない。唯名論唯物論がどのようにかかわるのかといったことはまじめに考えたことはないが、「こころ」あるいは「精神」といったものが最終的にはすべて物質の基盤の上になりたっていてなんら超越的なものを仮定する必要はないとは考えているとしても、「こころ」あるいは「精神」と呼ぶしかない何者かが人に存在することは認める。そうであれば唯物論者ではないことになるのだろうか? しかし観念論は大嫌いであるから、唯物論の方に近いのであろう。宗教はどう考えても実在論の側にあるように思えるので、わたくしにとって宗教は自分と関係ないものなのである。
 そういうことで、そもそも宗教についての本を読んだりすることもあまりない人間だが、そういう人間にとって一番ぴんときた宗教論が橋本治氏の「宗教なんかこわくない」であった。橋本治仏陀の思想は「自分の人生は自分のものだと思ってもいいんだよ」というものであるという。ということは、デカルトの「我思うゆえに我あり」と近いものであるともいう。さらに、仏教とは「悟りを開いて、自分の人生を自分のものにして、ただの人になるのが正しい」という思想であるから、能動的な「なる」思想である。一方キリスト教は、救世主によってすくわれるという思想であるから、受動的な「してもらう」思想なのであるという。しかし異端のグノーシス派ではキリスト教が「なる」思想となる可能性が残されていた。それが異端とされたことにより、キリスト教は「してもらう」思想になってしまったという。「してもらう」は過去の思想なのである。
 橋本氏によれば、宗教とは、「この現代に生き残っている過去」である。「かつて、ひとがそれをもとめ、そして、そのあと離れたもの」、それが宗教であるという。「宗教とは”幸福”というものを求める人間が」過去においておこなった”幸福にまつわる模索”なのであり、超越性とは何ら関係ないものであるともいう。
 しかし現代流布している俗説によれば、「われわれは物質的には豊かになったが、こころは一向に豊かにはならない。物質はわれわれを幸福にはしてくれない。それに答える(可能性がある)のが宗教である。なぜなら超越性とかかわることができるのは宗教だけだから」ということになる。それが典型的にあらわれているのが医療の世界である。医療は肉体をあつかうだけだから心の問題には答えることができず、それは宗教家があつかう領域なのだというようなことを平気でいうひとがいる。あるいはそれは精神科の領域であるとか。つまり科学は宗教に、物質は精神に、劣等感をもっているのである。20世紀最大の頭脳であったかもしれないフォン・ノイマンは骨肉腫と診断されて取り乱した。科学は死の問題にはなんら解決をあたえない。なぜなら死は超越性とかかわるからという。本当だろうか?

 本書は河合隼雄氏が聞き役となった中沢新一氏の宗教論、仏教論である。以下順をおってみてゆく。(中)=中沢氏、(河)=河合氏、(宮)=わたくしである。
 (中):今大事なことは個々の宗教を議論するのではなく、宗教の中核にあるもの、その先にあるものを考えることである。宗教の中核に一番近いのが仏教である。
 (河):心理学の課題が自我の確立であると考えていた頃はキリスト教に関心があった。
 (中):ガリラヤ時代のイエスはいい。あれは仏陀である。十字架が嫌いだ。大衆はあれがみたかったのだ。大衆の期待に応えたイエスは嫌いだ。←(宮):ロレンスの黙示録論。
 (中):仏教のいいところは、人と動物の距離がない点である。涅槃図でも弟子よりも多く動物があつまっている。一方、ユダヤ教では神と人の距離は途方もなく遠い。イエスユダヤの神と人の間の距離を埋める梯となろうとしたのだ。人と動物の間の距離、神と人の間の距離、それが宗教を見る場合の核である。神秘主義の段階の宗教では、どの宗教においても神と人の距離が近くなる。しかし、仏教は神秘主義によらなくても、それらの距離が近い。←(宮):動物が人の高みにあがるのか? 人が動物の地平に降りるのか?
 (中):古代国家においては、神と人の距離があるほうが支配に都合がいい。宗教はその発生において、古代国家と伴走していた。レヴィ=ストロースは、「野生の思考」のポイントは人間と動物がお互いに兄弟あるいは親子のような関係にあることであるとした。しかし超越的宗教はそのような「野生の思考」「神話の思考」を踏み潰してしまう。唯一仏教がそのような超越性をもたない宗教なのである。
 (河):しかし、世界を席捲している科学技術はキリスト教からでてきている。これを包含できるものでないと意味がないのでは。←(宮):まったく同感。
 (中):仏教は科学と宗教を媒介できる。科学は「野生の思考」からでてきたものだから。しかし、現在の科学技術はそれにギリシャキリスト教的なものが加わってできた異常なものである。その異常なものはシャーマニズムに起因するのはないか? 超越性はシャーマニズムからでてくるのである。ただ太古においては、シャーマニズムと神話的思考は共存していたのである。しかし、それがある時壊れた。それを解く鍵はモンゴル帝国である。モンゴル帝国はなぜか神話的思考を欠くシャーマニズム一辺倒の国家であった。それと接触することで世界がかわったのである。キリスト教神学は精緻化し、イスラム教もそれまでの素朴な宗教から深い宗教へと変った。日本においても(共鳴により?)鎌倉仏教が生まれた。でもなぜモンゴルでシャーマニズムが肥大化したかは、まだ解明されていない。これはなぜ科学がかくも肥大化したかが本当には解明されていないのとパラレルである。←(宮):それが一番大事なポイントなのに、「なぜか」とか「たまたま」そうなったというのでは、何も言っていなことにはならないか?
 (中):人間を他の動物と隔絶した存在であるとする思考法に対するアンチが仏教なのであり、それが「智恵」である。しかし大きな国家、帝国がうまれてくると、その智恵が吹き飛んでしまう。仏教は帝国と結びつかない宗教なのである。←(宮):そうすると鎮護仏教などというのは、まったく仏教ではないことになる? ロレンスのキリスト教論と同様で、個人の宗教と集団の宗教という問題ではないのか? 宗教は個人の問題である限りは害がない。集団の宗教となった途端に猛毒をもつことになる。しかし。そもそも集団のものとならない限り、それは広がることがない。その矛盾はあらゆる宗教についてまわるのでは?
 (中):ごちゃごちゃを排除した宗教が二つある。イスラム教とプロテスタントである。プロテスタントは母なるマリアを否定した父性の宗教である。父性の宗教であるイスラム教とは鏡の裏表なのである。←(宮):そうすると母なる宗教、母性の宗教を復活すべしということになるのか? 
 (河):一神教では、人間が努力して神になるということは絶対にない。←(宮):橋本治の論点。
 (中):宗教の一番普遍的な形はイスラム教のように、神の言葉をきいた人間がそれを語るという形式である。神の子として語るイエスも特異な形である。梅原猛氏は「イエスは青年の宗教だ。三十代の思想家だ」という。老年まで生きたムハンマド仏陀の宗教とはその点異なる。
 キリスト教は20世紀までの人類の青年期の宗教なのである。イエスが激烈な死に方をしたということはヨーロッパの精神、魂に深い影響をあたえている。←(宮):吉田健一はヨーロッパの若さということをいう。それはヨーロッパの野蛮でもある。これはイエスが若くして死んだこと、激烈な死に方をしたことと関係あるのだろうか?
 (中):キリスト教は男性原理、そこにマリア信仰という女性原理を接木した。仏教は自然のままの女性を否定し。形而上化した女性性と取り入れた?←(宮):フェミニズムというのは、そうだとすれば広い意味での反キリスト教運動なのだろうか?
 (河):キリスト教から生まれた個人主義をどう仏教の中で位置づけるか? キリスト教個人主義は男性原理だから。 女性原理をもつ個人主義は可能か? 
 (中):それは、たとえば猟師の個人主義ではないか? 狩猟文化の再評価を!←(宮):キリスト教の男性原理は砂漠の思想。そこに緑豊かなエジプトの豊饒の原理、女性原理を接木したという。それがグローバル・スタンダードの生産至上主義にもつながるという。しかし、農耕を否定して、狩猟文化をといっても、それは文明以来のほとんどの人類の文化を否定するものとなり、まったく説得力をもたないのではないか?
 (中):仏典の中には幸福という言葉はない。これは明治になって happy を訳すために作った造語である。日本語の「さち=幸」は「さ+ち」であり、「さ」は境目、境界を、「ち」は「霊力」をあわらす。狩猟文化において、境界にうずまく霊力とうまくコントロールすることにより獲物がたくさん得られることをいう。海幸、山幸である。仏教では安心は求めても、幸福を求めない。←(宮):吉田健一のヨーロッパ18世紀文明論そのまま。
 (中):犬がひなたぼっこして気持ちよさそうにしているのが仏教における「楽」である。←(宮):これが吉田健一のめざす世界である。
 (河):今の日本は、マクベス夫人のいう「望みはとげても、満足がない」状態である。仏教の安心はその対極である。←(宮):でも吉田健一は仏教だろうか? ヨーロッパだと思うが。ヨーロッパ18世紀は仏教であるというひとはいないだろうと思う。啓蒙思想は実は仏教である? まさか。
 (中):仏教がなりたつのは輪廻転生が前提とされて世界である。←(宮):だから橋本治は、仏陀はただの死人になったという。輪廻から外れた最初で最後の人。事実、中沢氏もひょっとするとお釈迦様は人生一度きりと思っていたかもしれないという。
 (中):鎌倉仏教は、古来からの日本の考え方と仏教が癒合したものである。御仏への御恩の世界。贈与論の世界、お返しの世界。古代からのアニミズムと癒合したのである。吉本隆明のいう「アフリカ的段階」との癒合である。

 ここでも論じられているように問題は人間と人間以外の動物との距離なのである。キリスト教は人と動物との間に無限の距離をおいた。魂をもつのは人間だけである。だからキリスト教では動物の葬式はしないらしい。それがキリスト教の欠点だと友人のキリスト教徒がいっていた。しかし、そういうことをいうのは彼が本当のところは仏教徒であるからなのかもしれない。
 それでは仏教では? どうも中沢説をきいていると、人間と動物は仲間であるのだが、いったん技術によって動物より上にいってしまった人間が、動物を自分達の仲間であることを取り戻すために「神話」を作った、その神話の世界がこれからのわれわれのとって大事なのであり、シャーマニズム的世界と縁を切れない一神教的世界観が行き詰まっている現在に対するもっとも有効な処方箋である、仏教がそれに道を拓くといっているようである。とすると本当のところでは人間は他の動物よりも優れているということになるのだろうか? もっと単純に人間もまた動物であるということではなぜいけないのだろうか?
 われわれには精神というものがなぜかあり、その為に、音楽をきいたり、絵をみたり、物語を読んだりする。それはわれわれを動かすことがある。しかしそれは犬が日向ぼっこで気持ちがいいことと別にかわるところはないのだということではいけないのだろうか?
 そしてその精神はまた神話をつくりシャーマニズムに走る。神話をつくるものと物語を希求するものは根を同じくするのであろう。そしてシャーマニズムを作り出すものも脳内の現象である。それはある種の呼吸法でえられ、またドラッグでもえられる。人間以外の動物にドラッグを与えてもそれらの動物は神秘体験をすることはないのだろうか? 彼らは言葉をもたないからそれらの体験をわれわれに伝えるころはできないが。そもそも抽象的思考をする能力と神秘体験をする能力とはパラレルなのだろうか? そもそも人間以外の動物は夢を見るのだろうか?
 養老孟氏は、つくづく一神教がいやになったという。今のイスラエルを見、イラク戦争を見、アメリカとイスラムの対立を見ていれば誰だってそう思う。自分たちが正しいという見方はどうにかできないものかと思う。正義という考えこそが諸悪の根元であると思う。
 しかし河合氏がいうように、正義を求めるものと科学を推進する力はどこかで通底しているのである。科学の成果だけはちゃかりと享受して、自分こそが正しいという思考法はごめんこうむる。そういうことはかつて和魂洋才などといってみじめな結果を生んだだけだったのではないか? われわれはもはや一神教の内側に入ってしまっているのではないだろうか? われわれにもし何かが可能であるとすれば、それを外側から批判することではなくて、内側から少しでも変えていくことではないだろうか?
 ここで「好き!」といわれている「仏教」は現在の病根に対するアンチの総体である。ここがおかしいよ、という指摘は正しい。しかしアジアは徹底してヨーロッパに負けてきた。イスラム世界の問題はヨーロッパに全面的に遅れてしまっている点にある。遅れているが幸せだとは思えていないのである。日本はどうにかヨーロッパというノアの箱舟にかろうじてのることができた。それでも不幸だ、満ち足りていないという。しかし、その日本をうらやましい。そのようになりたいという国だって多いかもしれないのである。
 本書のあるところで、莫大な遺産を受け継いだ人は大抵不幸になると河合氏がいっている。「遺産過多」は不幸の根元なのである。しかしその話を講演ですると、みな一度は「遺産過多」になってみたいものだというのだそうである。
 やはり、橋本治氏のいうように、<ひとは何であれ非合理を信じたりしない>のであれば、神話的思考の復活というような方向はもはや有効性はもたないのではないだろうか?