C・サーモン D・サイモンズ 「女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密」

  [新潮社 2004年12月15日 初版]


 正月からなんという本を読んでいるのだ!ということでもありましょうが、これは「進化論の現在」というシリーズの一冊であり、れっきとした学問の本なのであります。
 で。どんなことを論じているのかというと、例のモリスの「裸のサル」につながるような、女は家庭を守り、男は浮気っぽいのには生物学的な根拠があるという話のヴァリエーション。その題材としてスラッシュ小説というのをとりあげているのがミソということになる。スラッシュ小説とは何かについてはあとで説明する。
 人類の歴史の大部分の時間(99%以上)は狩猟採集の生活をしていたのであり、農耕以来の歴史はごく短いのだというのが論の前提となる。狩猟採集の生活は、移動する小規模な集団を単位としており、ほとんど資源のたくわえはなく、男は大型・中型の動物を狩り、女は植物性の食物を採集した。当時においても原則一夫一婦制であり、女性は妊娠可能な年齢ではほとんどが結婚していた。そのような社会において男にとって優秀な子孫をたくさん残すための一番よい戦略は、なるべく早く結婚し、可能であれば、別の妻を追加し、リスクが小さければ別の男の妻と性的な関係をもつ(結婚していない女はほとんどいないから)というものであった。一方女の側としては、集団の中で地位の高い優秀なハンターの一人だけの妻となるのが最善の戦略であった。
 現在では配偶者を決める行動は文化により規定されるとするものが多いが、それは完全に誤っている。狩猟採集時代に規定されたわれわれの志向は今でも強く生きている、というのが本書の主張である。
 たとえば、といって本書で紹介されている学問研究というのがとんでもないものなのであるが、若い大学生をサクラにして大学キャンパスで、異性に「あなたのことがずっと気になっていました」と声をかけ、①今夜、どこかに出かけませんか? ②今夜、わたし(ぼく)の部屋にきませんか? ③今夜、一緒にベッドですごしませんか? の三つのヴァージョンをランダムにいう。その結果(OKのパーセント)は以下。なお結果にサクラの容姿は影響しなかったそうです。

      デート  部屋  ベッド
  女   53    3    0
  男   50   69   72

 ね、これこそが狩猟採集時代から人間に刻まれている配偶者選択行動のあらわれというのが著者の見解である。
 売春で、男が求めているものは、口説くとか求愛するとか贈り物をするとかなどの面倒なプロセスがなく、セックスのあと相手がさっさといなくなってくれるということなのだと著者はいう。売春というのは男が女に敬意をもっていないから生じるのだという説がある。しかし、そうならホモセクシャルの売春は通常の売春と違っていなくてはならないが、実際にはそのようなことはない。
 ゲイとレズビアンの行動を比較すると、ゲイにおいては頻繁に相手を交換することや、見知らぬもの同士の一夜限りの関係が普通であるが、レズビアンにおいてはもっと長期の親密な関係が重視される。だからゲイでは前年に関係した相手の数が50人以上が25%にもなるのに対して、レズビアンでは大半が一人か二人である。
 そうだとしたら、男性のためにはポルノがあり、女性のためにはロマンス小説があることが、きわめて容易に理解できることになる。
 ロマンス小説において、ヒーローは必ずしも金持ちではない。ヒーローはしかしヒロインよりつねに年上でつねに背が高く、たくましく男らしくエネルギッシュである。だが、必ずしも社会的地位が高く豊かと限らず、社会的地位が低く貧乏であることも珍しくない。狩猟採集時代には金持ちや社会的地位の高いものなどはいなかったが、背が高く、たくましく男らしくエネルギッシュであることは、その当時においても、きわめて価値ある資質だったのである。
 人間の歴史の中でもっともうまくいった繁殖は婚姻関係によるものであり、そのほとんどは一夫一婦制であり、労働と育児の役割分担の上で成立してきた。だから通常の場合には男女の子どもに対する投資は均衡している。しかし、子どもを得るための最小の投資量は男女でまったくことなる。男にとって投資するつもりのない子どもを女につくらせることができるチャンスがあるなら、それを利用するのが適応的なのである。だからそういうチャンスに興奮するように性心理が進化したのである。一方、女にとっては、見知らぬものとのランダムなセックスは失うもののほうが圧倒的に大きい。相手を注意深く選ぶことが利益だったのである。だからロマンス小説が今でも読まれるのである。
 さてそれでスラッシュ小説スラッシュ小説とは女によって女むけに書かれた一種のロマンスで典型的な場合にはメディアの中のペア、スター・トレックの中のカーク船長/ミスター・スポックやドイルのホームズ/ワトソンのような男同士のコンビが愛し合うというものなのだそうである(スラッシュとは、これらペアを区切る記号 / に由来する)。
 なんで男同士が愛しあう話を女が書き、女が読むのか、そこに女のセクシャリティの秘密を見出せるのではないかと著者はいう。
 そこで与えられている説明、男女関係においては潜在する家父長的・従属的な構造を避け、対等な関係をつくるためとか、女性が自分の肉体を疎ましく思っているからではないかとか、通常のロマンス小説では登場する余地のない”弱い”男を登場させることによって、通常いわれている”男らしさ”を見直そうとしているのではないかとかは、十分に説得的なようには思えない。
 ロマンス小説に潜在する弱点、ふたりはようやく結ばれることになりました、めでたしめでたし、でもね、男はまた別の女に目をむけるようなことはないの?という疑問に、ほかならぬ男同士が結ばれたのだからそういう心配はないという形で答えているのだ、というのが、比較的納得できる回答ではあるが、それだけではとても十分とは思えない。
 ところで本書で説明されているところによれば、スラッシュ小説は1970年中ごろ世界で同時多発的に発生したものなのだそうである。日本の場合についても、「やおい」といわれる「少年愛」もののコミック・ジャンルがあることが言及されている。解説で竹内久美子氏もいっているように、なぜ1970年代にこれらが世界各地で同時に発生したのかはきわめて興味深い問題であるが、著者らはその点にはまったく言及していない。ウーマン・リブ運動がかかわっているのではないかというのが竹内久美子氏の見解だが、こういう点に関しては、ぜひとも日本において「やおい」小説(JUNE小説)という分野を創設したと自認している中島梓氏に登場してもらわねばならない(「コミュニケーション不全症候群」筑摩書房 1991年、「夢見る頃を過ぎても」ベネッセ 1995年)。
 さて中島氏によれば「やおいもの」とは、「「アニパロ」ものなどともいってアニメや小説のパロディを、しかも95%まで「男同士のラブロマンス」的見地から作りあげてしまうかなり特異な文化圏のこと」ということになる。その先達としては、竹宮恵子のマンガ「風と木の詩」があり、森茉莉の小説「枯葉の寝床」「恋人たちの森」がある。なぜ、女が女のために男同士の愛の世界を書くのかについての中島氏の答えは、こういう小説を読み書く女性は、少年でありたかった少女なのだからだというものである。女性であるから愛の対象は男性である。しかし自分が女性であることを拒否しているからその愛する側も男になる、そこで男同士の愛の物語が生まれるという。以前に出た説明の一つ「女性が自分の肉体を疎ましく思っているからではないかとか」に通じるものであり、事実中島氏はこれらの小説を読む女性は多く摂食障害と親和性をもつという。(なお、中島氏の「コミュニケーション不全症候群」の問題点の一つは、かなり安易に精神分析的解釈がなされていることであるかもしれない。)
 一方、中島氏は「コミュニケーション不全症候群」の第八章「美少年なんか怖くない」で(p204)、「男性性、女性性というジェンダーは人間という種の本来に組込まれたものではなく、社会的規範によって後天的に「刷り込み」されるものだ」といっている。つまり本書の主張、ジェンダーは狩猟採集時代に刷り込まれた先天的なものだという主張と真っ向から対立するのである。
 この点については中島氏が間違っているのだと思う。ボーヴォワールの「人は女に生まれない。女になるのだ」というのも、本人はそういうつもりで言ったのではなくても、「女というジェンダーは、大幅に遺伝的で種に組み込まれたものであっても、それは絶対的なものではなく、それに従属しなければならないものではないのだ」ということであろう。そうして、従属しないという選択肢を与えられるということは、そのような選択肢がない場合よりも却って苦しい状況を女性につくりだすということもありうる。1970年代以降スラッシュ小説がでてきたのも、中島氏の作り出した「やおいもの」JUNE文学に一部熱狂的な女性読者ができ、読者はそれによって救われたということも、時代の変化が社会のもっとも弱い構成部分である女性、特に少女に一番大きな犠牲を強いていたのだということであろう。
 本書は、スラッシュ小説はロマンス小説と直接つながるというのだが、ロマンス小説を受け入れることでは満足することができなくなるような歪みが1970年代以降生じており、その歪みに敏感な女性たちがこのような分野をつくってきたということのほうが実態に近いのではないかと思われる。中島氏の論じるのが主として少年愛の物語であり、本書で論じられているのは主として大人の男同士の愛の物語であるなど同一平面で論じることはできない点も多いけれども、それでも大きな筋としては、そういうことではないかと思う。1970年以降にはもはや「高慢と偏見」を書くことはできないのである。それは社会の階層がはっきりしており、性別がはっきりしており、それぞれの役割分担がはっきりしていた時代にしか書かれえないものであった。
 ジェンダーの役割分担があるいはそれぞれの性意識、特に女性のそれが生得的なものであるか、後天的なものであるかということがいつも問題とされてきた。フェミニズムの陣営はそれを後天的なものであり、男性社会によって女性に強制されてきたものであり、生得的なものではないと主張してきた。もしそれが生得的なものであるとすると、男性中心の現代の社会の仕組みを肯定するすることになってしまうと考えているようである。
 しかし生得的であるということは、それを変更することができないということではない。生得的であっても、それにもかかわらずそれを乗り越えていくことは可能である。しかしそれを乗り越えようとすることは非常な努力を要するものであり、だれにでもできることではないのかもしれない。少なくとも生得的な方向で生きるほうが楽な生き方であるのかもしれない。1970年代以降という時代は、(生得的なものであれ、後天的なものであれ)従来からあるジェンダー規定と、ジェンダーはフィクションであってジェンダーは各人改めて自分で選びなおせというような風潮が並立し、しかも堅固な男性社会は揺らがないままという、女性にとってはきわめて生き難い時代であったということなのであろうと思う。その生き難い時代をなんとか乗り越えるための一つの手段としてスラッシュ小説やおいものもあったのであろうし、現在もあるのであろう。
 それにしてもわたくしは、竹宮氏のマンガも、森茉莉氏の小説も(「枯葉の寝床」も「恋人たちの森」も三島由紀夫氏が絶賛していたので、とりかかってみたのだがどうしても読み進められなかった。全然感情移入のできない世界なのである)、ハーレクイン・ロマンも、スラッシュ小説やおいものも一切読んでない人間であるから、本当の意味でここに書かれたことは理解できていないのだろうなと思う。その昔、大岡昇平氏の「成城だより」を読んでいて(Ⅲ 文藝春秋社 1986年)、大岡氏が少女マンガまで読んでいるのを知って、よく言えばその知的好奇心に感心し、悪くいえば何でそんなものまで読んでいるのだゴクロウさまと思ったものだが、今にして思えばその時読んでおけばよかったのかなと思う。大岡氏の見解は、そこに死の影を見て否定的であるのだが(p38〜44)、橋本治のマンガ論「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」(河出文庫)まで読んでおり、七十歳を超える老人にしてまあとにかく大したものである。わたくしにはサブカルチャーといわれるような分野にかんする知識がまったく欠落している。大岡氏が七十歳を超えて挑戦したのだからまだ間に合うのかもしれないが・・・。とにかく、こちらのカバーしている知識範囲が著しく偏っていることだけは間違いがない。
 本書の著者の一人のC・サーモンは、まだ若い女性でスラッシュ小説の熱心なファンというより書き手の一人でもあるということのようである。なぜ自分がそういうものに興味をもつのだろうという疑問が本書の出発点となっている。中島氏にしてもおそらく自分個人の内にある何かを解決あるいは解放するためにそういう小説を書き、それが多くの女性の共感を呼んだことから、これは自分ひとりの問題ではなく、何か普遍的な問題に通じるのだということを考える方向にいったのであろう。
 ロマンス小説はアメリカのペーパーバックの全売り上げの40%を占めるのだそうである。英語の勉強に一冊くらい読んでみようか? でも、やはり、感情移入はできないだろうな。男はやはりポルノなのだろうか?


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密 (進化論の現在)

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