三浦雅士「石坂洋次郎の逆襲」(2)

 渡部昇一氏の「戦後啓蒙のおわり・三島由紀夫」(「腐敗の時代」1975年 初出「諸君! 1974年12月号」)は三島由紀夫、特にその「鏡子の家」、を論じたものであるが、昭和35年(1960年)の日本社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件から稿を起こしている。その犯人である山口二矢はその年の十一月に少年鑑別所で「七生報国」と「天皇陛下万歳」と書き残して自殺しているが、渡部氏は映画館のニュース映画で浅沼刺殺事件の映像をみて「戦後はこれで終わった」と感じ、そして、突然、この事件を解く鍵が前年に出版されていた三島由紀夫の「鏡子の家」にあると感じたとのだという。さらに後年の三島事件のテレビ映像に刺激されて読み返した小説が、石坂洋次郎の「青い山脈」と「山のかなたに」であったのだ、と。三島事件の時、三島も「七生報国」の鉢巻きをしていた。三島の死の後で読む「青い山脈」や「山のかなたに」は「恥ずかしいほど明るく、恥ずかしいほど楽天的で、恥ずかしいほど浅薄で、読むに耐えない底のものであった」という。
 しかし、昭和22年に当時山形県鶴岡市の高校生であった渡部氏が学校の図書館で読んだ「青い山脈」は膝に震えがくるほどの面白さであったという。そして西条八十作曲の映画「青い山脈」の主題歌が引用される。「若く明るい唄声に 雪崩も消える花も咲く 青い山脈 雪割り桜 空の果て 今日もわれらの夢を呼ぶ・・・」 過去は暗く未来は明るい・・。
 渡部氏の高校時代の先生は「石坂洋次郎の小説には、男のほっぺたをひっぱたく女が必ず出てくるな」といっていたという。「石坂洋次郎が『若い人』をはじめとする人気作の中に、女子大を出た知的な女教師を登場させ、その女主人公に男のほっぺたをひっぱたくシーンを用意したことは当時としてはなみなみならぬ小説技巧であった」と渡部氏はいう。昔の男は偉い者であって・・特に東北地方ではいつまでも男子尊重の念が強かったのであるから、そういう石坂の女性像は漱石が「三四郎」で美彌子を創造したのと同じで、まだ現実には存在していない女性の像を小説の中で造形して、「男のほっぺたをひっぱたく女が」が現実にも出てくることを石坂は期待したのだ、と。
 この辺りから少しずつ三浦氏の石坂洋次郎論に戻っていける。三浦氏はいう。石坂には「女を主体として描く」という特徴があるのだと。女は主体的に男を選び、男に結婚を促し、自分自身の事業を展開する主体なのだ、と。その理由として三浦氏が挙げるのが、日本の東北の苛烈な自然環境においては主体的な女なしに生活はありえなかったということを石坂氏が肌身に沁みて知っていたことと、石坂が母の経済的な才能と力量によって大学に進学できたことを挙げる。そして石坂氏が進学した慶応大学で柳田國男折口信夫に接することにより「女性が強いということこそが日本古来の姿であった」と徹底的に認識することになったのだ、と。「津軽の女は強くて主体的だが、じつはそのほうが人間本来の姿だと考えたのだ」と。「女は昔から強かったのだ」と。
 ここで、二つのまったく異なる主張に出会うことになる。渡部氏は石坂は現実にはまだ存在していない女性像を将来に期待して、筆の上で造り上げたのだというのに対し、三浦氏はすでに存在している女性像を、石坂氏はただ目鼻立ちをくっきりさせて提示したに過ぎないのだという。面白いことに、石坂氏も渡部氏も三浦氏もみな東北の出身である。
この両者の主張のどちらが正しいかを論じても意味がないだろうと思う。現実にどこかに石坂氏が描くような女性はいたかもしれないが、それはごく例外的な少数であった場合、両者の主張はともに肯定されうるからである。この場合、一番の問題は女性の経済的な自立ということであると思う。
 それで、わたくしの場合について少し考えてみる。わたくしが育った環境において、自分の周囲に働いている女性がいなかった。ほとんど全部が専業主婦であった。唯一の例外が看護師さんをしていた親戚で、最終的に大きな病院の師長さんをしたので、終生働いていたわけだが、夫君は社会主義協会の重鎮であった方で、生涯を社会主義の世界を地上の天国であると信じたまま終わったという、大変幸せな生をおくった方で、思想の世界に生きるひとの常として(なのかどうかはわからないが)家計の方面にはいたって疎い人であったので、奥さんが経済的の方面はもっぱら担っていたのではないかと思う。奥さんは夫君の思想的同志でもあり、ご主人が社会主義世界の実現のために邁進するのを支えることをいたって当然のこととしていたので、旦那さんが甲斐性のないので自分が家計を支えざるをえないというような感じ方は微塵も持っていなかっただろうと思う。おそらく政治の世界は男の世界と思っていたのではないかと思う。
 もちろん、専業主婦というのはほとんどの場合、家計の実権を握っているのであるから、家のなかでほんとうに権力を握っているのは女性ということになるのかもしれないが、わたくしの場合には周囲に働く女性というのは現実の像としてはほとんど知らなかった。
 「東北の苛烈な自然環境においては主体的な女なしに生活はありえなかった」というのは本当であろうと思うが、これは農家のことを指すのではないだろうか? 農家の嫁というのはまず労働力として期待されていたはずである。そしてまた、子という新たな労働力を再生産する存在としても。戦後のある時期、専業主婦というのが一部の女性の憧れの対象となったのは、労働力として期待されるのではなく一人の女性として望まれるという形が魅力的に映ったということがあるのではないだろうか?
 わたくしが最近強く感じているのが、自分が杉並という東京の山の手という新興の街でほとんどの人生を過ぎしてきたことが、自分に決定的に影響しているのではないかということである。
 堀田善衛氏の「若き日の詩人たちの肖像」をぼちぼちと少しずつ読んでいるのだが、そこで感じるのは堀田氏が金沢という歴史のある町に生まれたということが、堀田氏の様々なものへの視点に決定的に影響をあたえているということである。氏が若き日に東京に出てきてまず感じるのが東京という町の文化的な貧しさである。
 わたくしが小学校の頃、課外実習?で時々、学校のそとに出て田圃でザリガニを採りにいったりしていた。なにしろ、学校のすぐにある井の頭の線沿線は一面、田圃であったのである。それが次々に住宅地にかわっていったのであるが、それまで人が住んでいなかったところが住宅地にかわっていったわけである。何代にもわたって人が住み続けることではじめてうまれるような蓄積は皆無なわけである。堀田氏は金沢という歴史のある土地に生まれ、(没落しつつあるとはいえ)回船問屋という外に開かれた商家の出である。
 だから自分の生活の律するような自前の内なる規範がなかった。今から思うとわたくしが中学から高校にかけて抱いていたものの見方はなにがしかヴィクトリア朝的道徳に繋がるようなものである。あるいはそのころテレビで放映されていたドラマに描かれたアメリカの家庭像などにも無意識に感化されたのかもしれない。たとえば、「パパは何でも知っている」(原題は Father knows best 何といううまい訳であろうかと感心した。)
 そして、わたくしが中学高校時代に漠然と感じていた石坂洋次郎の像というのは、なにがしかアメリカ的価値観的なものの唱道者というものであった。渡部昇一氏が三島事件のときに感じたという石坂像と同じである。一言でいえば、「暗さ」がない。あるいは「影」がない。「後ろめたさ」がない。「深さ」がない。総じて、われわれが文学というものに期待している何か(たとえば太宰治的なもの)をほとんど欠いている。「明るさは滅びの姿であろうか。人も家も、暗いうちはまだ滅亡せぬ」(太宰治:右大臣実朝)
 この三浦氏の提出する石坂洋次郎像が面白いのは、そういう旧来からの石坂像を見事にひっくり返している点にある。石坂洋次郎もまた「暗い」のだぞ! と。
 暗い石坂像はまた稿をあらためて。

石坂洋次郎の逆襲

石坂洋次郎の逆襲

腐敗の時代 (PHP文庫)

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鏡子の家 (新潮文庫)

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若き日の詩人たちの肖像 上 (集英社文庫)

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  • 作者:堀田 善衞
  • 発売日: 1977/10/20
  • メディア: ペーパーバック