マスクが目立つコンサート(補遺)

 数日前に「マスクが目立つコンサート」などといささか呑気な記事を書いたら、状況が大きく動いている。25日の朝の通勤電車が何だがあまり混雑していないなと思っていたら、その後いろいろな集会がばたばたと中止とか延期になってきていて、わたくしがいったコンサートは2月24日(休日)のサントリー・ホールだけれども、そこの公演も27日からは中止または延期になってきているようである。
 新型コロナウイルス(COVID-19)感染症は医療の問題ではあるけれども、特別に有効な治療法がないという点では、魔法の弾丸(抗生物質)発見以前の世界である。もちろん、医療技術は進歩していて、現在のCOVID-19感染症治療で大きな役割を演じていると思われる人工呼吸器などは抗生物質以前の医療の場にはなかった。しかし重症化し、呼吸器装着にいたった患者さんのなかで回復し元気で退院できた患者さんがどの程度いるのだろうか? そういったデータはまだ十分には開示されていないように思える。
 報道で目にする医療現場では医療者はみな防御服をきている。特効薬がないとすれば、「ときに癒し、しばしば和らげ、つねに慰む」の世界に戻っていると思われるが、あの防御服では患者さんを「慰める」ことはまずできないのではないかと思う。
 普段の臨床がなりたっているのは、医者が診断を間違おうが、見当違いの治療をしようが、自然治癒力で大部分の患者さんは自力で回復するからで、正確な診断と治療がなされなければ患者さんの回復はないのであれば、臨床の世界は間違いなく崩壊する。今回のコロナウイルス感染症でも、相当部分の患者さんは何らの治療も要さずに自然に回復しているはずである。
 今回の事態がわれわれにとって奇妙に見えるのは、疾患への対応について、《公衆衛生学》的対応が前面にでてきているからなのであろう。そういう対応が必要とされる事態をわれわれは長らく経験してこなかった。産褥熱という病気が医者が手洗いをするようになったことで激減したことはよく知られている。ある時期の日本の乳幼児死亡率の低下には上水の塩素殺菌が行われるようになったことが貢献しているらしい。
 マスク着用とか手洗いの励行が疾病対策の中心になるとか、人の移動の制限が対策になるというのは、いかにも原始的な対応のように思える。しかし、こういう経験は臨床医学というものをあらためて考えなおす一つのきっかけにはなるのではないかと思う。
 ちょっと例外的とは思うが、わたくしの医学部の同期生は、当初はすべてが臨床への道を選択した。基礎医学のほうに進んだものはひとりもいなかった。その後、臨床から研究の道に転じたり、厚生省に勤め行政のほうにいくようになったものもいるから、最終的には全員が臨床を継続したわけではないが、圧倒的な多数は臨床の医者である。
 「小医は病を癒し、中医は人を癒し、大医は国を癒す」のだそうだから、臨床医というのは結局小医である。それと比較して、おそらく公衆衛生の分野というのは、どこかで大医に通じる存在なのであろう。
 日本では公衆衛生分野の専門家自体が少なく、またそのため発言力も弱く、本来、その力が発揮されるべき今日の事態においても、その機会が十分にはあたえられていないのかもしれない。
 いま話題の?(炎上中の?)岩田健太郎教授は感染症の専門家である。その経歴をみても、第一線での臨床家であって、その抗生物質の適正な使い方の指南書などは多くの臨床家の座右の書になっているはずである。感染症分野というのは臨床医学のなかでは比較的公衆衛生と接する場面が多い分野であると思われるが、もしも公衆衛生の専門家がもっと強力な指導力を発揮していれば、あえて氏がクルーズ船の管理について発言することもなかったのかもしれない。
 日本では「わたし、失敗しないので」という医者が名医ということになっているらしい。しかし、そういう先生のところにいっても、現状では、COVID-19感染患者の全員が救命されるわけではない。
 臨床という行為の限界、それに何ができて何ができないかについて、さらに一般的にいえば、科学の分野でできることできないこととその限界について、今一度考え直してみる、一つのいい機会が現在あたえられているのかもしれない。
 もっと簡便で迅速にウイルスの有無が判定できる検査法を確立すること、有効な治療薬を開発すること、これらは科学の分野の問題である。今回のCOVID―19が既存の抗ウイルス薬で確実に対応できるものであったとすれば、今の騒動はおきていなかったはずである。
 わたくしが少し関係している肝臓病の分野でいえば、C型肝炎ウイルスをほぼ100%排除することが可能な薬剤が開発されたことが、多くの肝臓病医の今後の展望を厳しくしているといわれている。要するに、病気がなくなってしまえば、専門医もやることがなくなる。
 わたくしが大学を出たころはようやくB型肝炎ウイルスが特定されたころで、それにより輸血後肝炎といわれていたものの本態が少しずつ解明されるようになり、輸血後肝炎にもB型以外にも原因があることがわかり、それが仮称として一時非A非B型肝炎といわれていたものが、あるヴェンチャー企業がウイルスを同定することに成功したことによりC型肝炎と呼ばれるようになり、B型肝炎ワクチンが開発され、インターフェロン療法が試みられ・・・、ついにはC型肝炎については、ほぼ副作用なく、根治させることが可能な時代になった。B型肝炎ウイルスについてはまだ根絶可能な薬剤はなく、増殖を抑制する薬剤しかわれわれはもっていないが、それでもB型肝炎という病気がコントロール可能な疾患になったことは間違いない。また公衆衛生的見地からいえば、輸血のスクリーニングで輸血後肝炎がほぼ根絶されたことが非常に大きい。
 確かに科学がなしえてきたことは大きい(ただし、少なくとも肝炎の分野でいえば、それへの臨床家の貢献は微々たるものなのであるが)。
 そういう中で、手洗いとか隔離といったことが病気への対応策としてでてくると、なんだか時代が100年くらい戻ってしまったような感じをわれわれは抱く。しかし、「ホレイショーよ、この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」というハムレットの言葉を思い出すことが、われわれには、時に必要とされているのだろうと思う。