中島梓 「コミュニケーション不全症候群」

  [筑摩書房 1991年8月10日初版]


 前にとりあげた「女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密」の時にも本書について少し考察したが、もう少し続けてみたい。
 これはオタクと拒食症とJUNE文学愛読者について論じた本である。その根底には、「実際ひどい世の中だとは思いませんか。みんな狂っているとは思いませんか。一体いつのまに世の中がこれほど狂ってしまったのだろうか・・・」という視点がある。オタクも拒食症もJUNE小説の発生も、このひどい世の中への反応として説明できるという見方である。
 以下、この本自体というよりも、この「ひどい世の中」という点について論じていきたいと思う。この本が発行されたのが1991年だからもう約15年ほど前であるので、中島氏がひどい世の中といっているのも1990年ごろのことであるのだが、ほとんど皮膚感覚で氏が予言したことが、その後の展開でどうなったかというのが、ここでの主たる関心である。それで、中島氏の著書だけでなく、それ以外の本もいろいろととりあげながら、この問題について考えていきたい。
 大雑把な見通しをいえば、中島氏は世界の変動の予兆を敏感な感受性でいち早く感じ取っていたものと思われるが、それは氏がしているような心理学的、精神分析学的やりかたで説明できるものではなく、世界に生じているもっと大きな構造的な変化により説明したほうがいいものであると思われる、というようなことであろうか?
 この本で中島氏がいうコミュニケーション不全とは、氏によれば、①他人のことが考えられない(想像力の欠如)。②しかし、知り合いになると、それが一変する。自分の視野に入ってくる人間だけが「人間」である。③その基本には人間関係への不適応(過剰反応であったり、適応不能であったり)がある(岸田秀のいう「対人知覚障害」)、といった特徴をもっている。①と②は現代の人間の相当部分に該当することかもしれない。携帯でメール交換する範囲だけが人間であるとするような最近の風潮(「ケータイを持ったサル」正高信男 中公新書2003)にもよくあてはまるように思えるが、中島氏のいいたいことは③の部分にあり、「ひどい世の中」に敏感な人間が過剰に適応しようとすると、あるいはうまく適応できないと、どうなるのかということなのである。
 かつて教養主義というようなものがまだあった時代には、自我は刻苦勉励してつくりあげるものであった。しかしオタクの場合にはそういうことはない。オタクは現実から目をそむけ、現実に適応するために苦労して自分を変えることなどは考えもせず、なんらかの代替物によって擬似的な現実をつくりだして、現実にではなく仮想現実のなかで生きようとする。彼らがなぜオタクになるのかといえば、彼らをとりまく「ひどい世の中」が原因であるのだが、彼らは周りの世の中を異常と感じることはない。現実とは彼らとは関係ないものであり、本当の現実からは抛っておかれることのほうを彼らは望む。
 そもそも人間が自分を人間として成立させるためには、自分の「居場所」の確保しなくてはならない。そのため、人間は有史以来、家の中と家の外を区別し、また共同体をつくりあげ、その内と外を峻別し、内にいる仲間とたちとだけで居場所を確保しようとしてきた。しかし、オタクが特殊であるのは、彼らが仲間とするのは人間でないものなのであり、人間はすべて「仲間でない人間」であるとみなすということである。オタクたちの自我の存立基盤には人間はいない。オタク少年は、社会の選別システムを拒否し、競争社会からおりて、自分の内宇宙に閉じこもる。人間とはつきあうことができないほど彼らは追い込まれているのだと中島氏はいう。
 JUNE小説を読む少女もまた、「ほんとうの自分」を避ける。もって生まれた自分自身をどうしても好きになれない。しかしキライであっても、男と違って女は有史以来ずっと選別され続けてきたのであり、選別されるという以外の存在様式をもつことができないので、社会という舞台からおりることができない。それがほとんど男たちからなるオタクと違う点である。
 オタクは不適応であり社会からドロップ・アウトするが、ダイエット患者たちは社会に過剰適応し、社会の中で「いい子」として認められるように必死の努力をしている。ダイエットしないと社会から認知されないと思い込んでいる。肯定できる自我がなく、社会にさらされている嫌いな自己像だけがある。
 本当に自己を肯定でき、自分を信じられるものは、決してダイエットなどしない。本当に自分を愛することができる人間は「みんなから可愛がられる」ことを病的に求めるたりしない。ダイエットするのは、自分を肯定できず、自分を好きになれないからなのである。現在は豊かな時代になったが、そこに足りないものがただ一つある。「対人関係」である。ものではなく人間が欠乏している。他の人間の興味をひきつけ、他人から「見られる」ことだだけが欠乏している。他の人間によってのみ自分は保証されるのである。これが「愛されたい」病である。すべての人間が愛されたい、好かれたい、かわいいと思われたいと思っている。そこには愛する側の人、好く側の人、かわいがる側のひとがいない。少女たちは、自分を自分のままで、あるがままの自分でよしとして受け入れてくれる人、そういう自分を愛してくれる人を求めているのだが、それができないために、またそれをしてもらえる自信がないために、自分がそれに値する存在に変貌しなくてはいけないと思い込んでいる。それがダイエットの動機である。あるいはまたそのようなことに疲れて、女であることから逃げようとする。そこからJUNE文学が生まれる。
 それでは、なぜコミュニケーション不全のひとたちがが出現してきたのかということについては、中島氏は世の中が豊かになったこと、貧しい時代とは違って、誰でもが精神だとか自我だとかということを考える余裕ができてきたことを可能性としてあげている。おそらく本書の一番の弱点は、ここでいわれている原因分析が十分な説得力をもたない点にある。というより、彼らがどれほどつらい思いをしているかということの説明のほうに中島氏の論点は大きなウエイトがおかれており、その原因はなぜかという考察に力を割く余裕があまりないのである。それは自から認めているように中島氏がかつてダイエット症候群を病んだことのある人間であり、オタク的要素を濃厚にもち、JUNE文学の書き手でもあることが大きく関係しているのであろう。この本は中島氏が自分のことを書いたものともなっている。
 「文藝春秋」1997年9月号の「寂しい国の殺人」(村上龍自選小説集7 集英社2000年所収)で、村上龍氏は、「日本ではもう近代化は終わった。その結果、集団の目標がなくなり、各人が自分の個人としての目標をもたねばいけない時代になった」ということを述べている。中島氏がいうようなコミュニケーション不全症候群患者が多発してきているのは、社会全体としての自明な目標が消失し、各人がそれぞれで目標を探さなければいけない時代になってきていることが、その一つの原因となっているのかもしれない。
 村上氏の論の要点は「集団」から「個人」へ、ということである。もうみんなで生きることはできない。一人づつで生きなくてはいけない、ということである。役割分担が自明な社会においては、自分が何も考えなくても、多くの人間がとりあえずの接点を世の中ともつことができた。しかし、近代化したあとでは、世の中との接点は各人が自分で探し出さなくてはいけなくなっている。だとすれば、個人への負荷がとても大きくなり、それに耐えられず、悲鳴をあげるものがでてきても不思議ではない。
 村上氏は、「寂しい国の殺人」で、時代の感情が、「悲しみ」から「寂しさ」へと変わったといっている。今次大戦に敗れて、日本人は大きな悲しみを味わった。しかし、敗戦の悲しみはみんなで努力して頑張れば克服できるものであり、その悲しみも共有できるものであった。しかし、高度成長によって敗戦の傷を乗り越えてしまうと、みんなで共有できる目標はなくなってしまった。個人が一人ひとりで価値観と目標を探し出さなくてはいけない時代となった。それが見出せない寂しさも個々人のものであって、誰かと共有できるものはなくなった。近代化途上の「のどかで貧しい」時代から「ぎすぎすしているが豊か」な時代へと時代は変わった。しかし「のどかで貧しい」時代がいい時代だったわけではない。それは「ぎすぎすしているが豊か」な時代へと進歩していったのであり、もうあともどりすることはできない。それが村上氏の主張である。そして、そこでの氏の処方箋はいたって単純なものである。「個人としての目標を設定しないといけない。その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ。」というものである。
 しかし、オタクに将来の自分を支える仕事のことを考えさせることができるだろうか? JUNE文学愛読者は自分の将来の目標を設定しているのだろうか? ダイエット症候群に悩む人間にとっては現在がすべてであって、未来のことを考える余裕などないのではないだろうか? かれらはあまりに自分のこと、現在のことで頭が一杯になり過ぎている。
 自分のことしか考えることができないというのが問題である。最新の「考える人」(新潮社 2005年冬季号)の「万物流転」⑪「個人主義とはなんだ」で、養老孟司氏は、個人心理という考えがいけないという趣旨のことを書いている。個人とは個体のことであるはずなのに、それを個の「心」である、個人の心のことである、というように考えているのがいけないという。若者はよく「わかってもらえない」という。そして「わかってもらえない」のは、自分が「個性をもっている」からで、個性的な人間だからだと思っている。その「個性をもったこのわたし」こそが自分だと思っている。しかし、彼らは自分を相手にわかってもらうための努力も少しでもしているだろうか、と養老氏はいう。
 極度の自分への関心というのは病理であって、ここでの養老氏の指摘は、愛してくれとばかりいって愛そうとはしないコミュニケーション不全症候群患者の病理と対応するものであろう。わかってくれ!理解してくれ!とだけいっている若者たち。村上氏が「個人としての目標を設定しないといけない。その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ」というのは、自分をわかってもらうということは仕事の中でしか実現しないのだということである。「13歳のハロー・ワーク」という変な本を村上氏が出したのも、わけのわからん自分探しなどといっていないで、自分と仕事を結びつけろということなのであろう。
 中島氏の考察はもっぱら日本だけを対象にしていた。だが、中島氏がとりあげたような現象は果たして日本だけのことなのであろうか? JUNE小説に相当するスラッシュ文学というものが世界同時多発的に1970年ごろに生じたことは、前にとりあげた。山田昌弘氏の「希望格差社会」(筑摩書房2004年11月)によれば、社会から排除され、将来の希望がなくなり、やけになる人が増えてくるというのは、世界全体でみられる傾向であり、決して日本だけのことではないのだという。将来に希望がもてず、実現不能な夢に逃げて生きる人々が、さまざまな場所で増えているのだそうである。
 山田氏によれば、このような現象は、国際社会の枠組みや世界経済の変化に伴って不可避的に生じてくるものであり、先進資本主義国においては共通におこっていることであるという。社会は進めば進むほど安定するという従来からの見解とは異なり、近代社会は発展のある段階を過ぎるとかえって不安定になるというのが、最近の社会科学の分野での多数意見となってきているらしい。その不安定化への変換点は1990年前後であったと見るものが多いとのことである。近代社会が発展すればするほど、社会の不確実性が増し、生活はリスクに満ちたものとなり、成功者の陰で弱者が社会からはじきだされ、社会秩序が不安定化するという暗い見取り図である。
 このような傾向は押しとどめることは不可能なのだという。なぜかといえば、そうなる最大の理由が社会が豊かになり、人々の自由度が増したことだからなのである。そもそも前近代の社会では「人生を自分で選択する」という概念自体がなかった。そこではあえてリスクをとるという生き方は考えられなかった(それをすれば村八分であり、生きることさえ難しかった)。しかし逆に伝統に従ってさえいれば、生きてはいけた。自由な選択が可能な社会とは、その選択の結果にリスクがともなうということでもある。その社会では、リスクをとって自己実現することが推奨されるが、それは同時に自己不全感に悩む人をつくりだすことでもある。日本においては1990年ごろまでは、高度成長の結果として、「人生を自分で選択すること」がほとんどリスクをとることなしにおこなうことができるという奇跡的なことが実現できていた。しかし、高度成長の終焉により、リスクは個人で負わねばいけないものとなってきた。
 とすれば、そのような社会は緊張の高い社会であり、感受性に富み、敏感な人間にまっさきにその歪みを押しつけてくることになる。それを中島氏が早い時点でとらえていたということなのであろう。どこかで中島氏は自分のことを炭鉱のカナリヤにたとえていたような気がする。
 ただ「コミュニケーション不全症候群」を書いた時点での中島氏のスタンスは、彼らが敏感であるがゆえにそうなってしまうのは仕方がないにしても、みんながそうなってしまっては誰も社会を運営するひとがいなくなってしまう、それは困るではないかというものであった。オタクやダイエット症候群の人間であっても、誰かが彼らを養ってくれるだろうということについては、あまり疑ってはいなかったようである。その点では高度成長期のまだ余裕のある時代であったのかもしれない。
 山田氏の著作で述べられていることは、これからの先進国では社会が二極化していくことは避けられないということである。いままではそこそこでいられた人であっても、これからは底辺のほうに追いやられて厳しい人生がまっているのであるとしたら、オタクやダイエット症候群患者、JUNE文学愛読者は生きていくことさえ困難になっていくのかもしれない。世の中が豊かになり、貧しかった時代とは違って、誰でもが精神だとか自我だとかということを考える余裕ができてきたことがコミュニケーション不全症候群をひきおこしてきたのかもしれないと中島氏はいうのだが、彼らがその日の糧をえるのにも汲々とするような時代にもしもなるのならば、彼らはまた減少していくのだろうか? 彼らは高度成長時代のあだ花でもあったのであろうか?
 「ケータイを持ったサル」の正高信男氏によれば、ひきこもりもパラサイト・シングルも日本にしかみられない現象なのだそうである。少なくともアメリカでは考えられない。なぜなら思春期をすぎたら小遣いは自分で稼がねばならず、まして大学にいけば学資は自分で調達するのが前提で、親子別居が当然の社会なのであるから、就職してからも親と同居しているなどというのは考えられないからだという。中島氏も言っているように、彼らの病理は成熟拒否、永遠に少年でいようとすることなのであるから、物理的に子どもでいられなくなってしまう社会では存在が許容されないかもしれない。
 彼らに特徴的なのは、自分へのこだわり、自分への過剰な関心である。
 「個人主義とはなんだ」で、養老氏は「人は変わらない」という考えがいけないといっている。確固とした変わらない自分というものがあるという現在の広くいきわたっている通念は間違っているという。そうではなく、「人は変わる」のであり、変わることができることにより、われわれは「希望」をもつことができるのだという。若者たちは、どうせできの悪い俺は一生変わらずこのまんまだよと思いこんでしまっていて、それで無気力となりぐれるのだという。若者の不幸の根源は「人は変わらない」あるいは「変われない」という思想にあり、本当の自分というのは生まれつき規定されていてもう変えようもないものだと思うから、血液型で性格がわかるとか、根暗・根明などというのだということにこだわるのだという。問題は、自分は変わらないが、それでも自分の中にはかけがえのない自分らしさがあるとするような見方なのであろう。
 「変わることができる」ということは、自分の中の可能性が何かをきっかけにして花ひらくというようなことにもつながる発想である。これは潜在している能力の開花なのであろうか? 山田氏は旧来の教育システムは、時間をかけて本人に自分の本当の能力がどれだけのものであるのかを自覚させ、それぞれの能力に応じた職業にひとをふりわけていくことについては、きわめてよくできたシステムであったという。これは能力は先天的に決定されている部分があり、その能力の限界を早く自覚したほうが本人のためという考え方である。
 能力には生まれつきどうしようもない差がある。そのことにいち早く気づき、それでも自分が一番になれる可能性があるきわめて狭い場所に閉じこもってしまったのがオタクなのかもしれない。旧来の教育システムの中でいち早く自分に期待されているものに気づいて絶望してしまった人間がダイエット症候群患者であり、JUNE文学愛好者なのかもしれない。そういうものたちは、養老氏が怒っているように「個性あるこの私」、「世界に一つだけの花」などという無責任な言動の被害者なのであろうか?「若者に独創性を説くのは、おそらく害があろうと私は思うようになった」と養老氏はいっている。その被害者がコミュニケーション不全症候群患者なのであろうか? それとも、近代という社会が自動的に各人に役割を振ってくれることがなくなり、自分の役割は自分で探さなくてはいけなくなったこと、そのこと自体が問題なのであろうか? 自分で自分のことを決めるというのは一部の人間にとっては解放であり、喜びであるのだが、大部分の人間にとっては重荷で苦しみであるのだろうか? 「個人としての目標を設定しないといけない。その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ。」などといわれても、大部分の人間は途方にくれるだけなのであろうか?


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

コミュニケーション不全症候群

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