村上龍 「最後の家族」

  [幻冬舎 2001年10月10日初版]


 この本は出たときに買ってはいたのだが、テレビで同時進行でドラマをやっていた(観ていないが)こともあり、なんとなく敬遠して読まないままでいた。最近、ひきこもりとかそういうことに関する本を読んでいることもあり、思い出して本棚から出してきて読んでみた。 「希望の国エクソダス」と非常に近い印象をもった。ひとことでいえば話がうますぎるよということであろうか?(もちろん、そんなに都合よく話しが進んでいいの?ということである。物語の進行という点についていえば、本当に上手である。)
 あらすじを書いてみる。
 夫婦とその子ども二人(息子と娘)の計4人の家族の話である。兄がひきこもっていることが話しの発端となる。引きこもりの兄は現在浪人中である。彼は引きこもった部屋の窓から隣の家をカメラで覗いている。そこで偶然、隣家の奥さんがドメスティックバイオレンスをうけているらしいことを知る。そのバイオレンスの実態が物語りの進行につれて明らかになってくる。
 高3の妹は受験勉強をしているが、宝石デザイナーである28歳の元ひきこもりの青年と時々会っている。
 母は42歳の専業主婦であるが、引きこもりの息子の相談のために精神科医やカウンセラーをたずねているうちに、たまたま13歳年下の大工と知り合う。その大工が息子とくらべてあまりに健全であることに驚く。
 父は中堅の部品メーカーの営業の仕事をしているが、会社の業績は悪く、社内ではリストラの噂が飛びかっている。
 ひきこもりの兄は、隣のDV被害者を救うのが自分の使命であると感じるようになり、ひきこもりながらも法律書を読んだり、DV救援団体、警察、弁護士などと連絡をとるようになる。妹は宝石デザイナーの青年に惹かれるようになり、デザインの勉強のためにイタリアにいく青年について、自分もイタリアにいこうかと考えるようになる。母はひきこもりの相談の仕事のほうに打ち込むようになる。
 ある時、父は息子との争いで怪我をし、それをきっかけに息子との接触を避けるために家を出る。それにより家族は分解をはじめる。妹は受験をやめイタリアにいくことになる。息子はDVの被害者の相談で弁護士を訪ね、そこで自分の行動の根にあるものを指摘され、衝撃を受けるとともに、それをきっかけに急速に引きこもりを脱し、家をでて弁護士を目指して勉強をはじめる。父の会社は外資に売却されることになり、父は解雇される。いろいろ職をさがすがみつからず、故郷の群馬に帰って小さな喫茶店をやることになる。母はフルタイムで引きこもりの相談をするようになり、夫にはついていかず、家に残る。その結果家族4人はばらばらで暮すようになるが、それぞれが自立することにより各人はハッピィになる、というものである。なお母は大工さんと一緒にハワイにいったりもするのであるが、それでも離婚はしない。ばらばらでも家族なのである。
 というように筋を紹介すれば、「13歳のハローワーク」をふくめた最近の村上氏の主張を小説化したものであることが一目瞭然である。いまどき、サラリーマンになるのは最低の選択であるという部分は、リストラに翻弄される父の姿に描かれるし、ただ目的もなく大学受験をしようとしていた妹は、受験をやめて家具デザイナーという具体的な目標をもってイタリアにいこうとする。父の哀れな姿と対照的に、大工と家具デザイナーは凛々しく描かれる。ひきこもりの兄も弁護士という具体的な目標をもつことでひきこもりから脱する。母もひきこもりの相談という具体的な人生の目標をもつことにより、専業主婦であったころより強くなり自立する。要するに具体的な目標をもった仕事は万能の力をもつのである。
 もう一つが、引きこもりの兄に弁護士がいう「他人を救いたいという欲求と、支配したいという欲求は、実は同じです」という部分である。引きこもりの兄は、その指摘を受け、自分がDV被害の奥さんを助けたい、救いたいと思っていたのは、自分がその人を支配したいという欲求によるものだったと気づき、衝撃をうけるとともに、一気に自分の理解に到達し、引きこもりから脱する。
 サラリーマンである父を支えていたのは自分が家族四人を養っているという自負である。これも他人を救いたいという心理の変形であり、家族を支配したいということなのである。家族はそれで苦しくなる。
 また、母親は精神科医やカウンセラーに通ううちに息子にあまり干渉しなくなっていく。それが息子を救う。弁護士がいうには、精神科医やカウンセラーに通ううちに、母は自立したのであるという。自立することにより息子を支配しようとはしなくなり、それによって息子は救われたのであるという。
 要するに支配ー被支配の関係ではなく、自立した人間同士の対等な関係が人を救うのであるというのが村上氏の主張である。
 ここで一人だけ、まったくそれとは正反対の立場にいるものがある。DVの被害者の奥さんである。彼女はどんなに暴力をふるわれても家をでようとはしない。彼女は孤独に耐える力がないのだ、と弁護士はいう。彼女はどんなことがあっても家にいることのほうをまだましであるとして、選択するのである。
 ここにでてくる田崎という弁護士はデウス・エクス・マキーナであって、その一言が小説の流れを変え、方向を決定してしまう。わたくしの日ごろの臨床の経験から言えば、ここでの田崎弁護士はほとんど心理療法士のようにふるまっているようにみえるが、医療者の言葉によって何かがわかったと思うようなことは、本当には患者を変える効果をもたないと思うので、劇的な展開がとても嘘っぽく見える。患者が変わるのは患者自身が自分で何かに気づくことによってであって、誰かにいわれて頭で納得することによってではない。なんだか村上氏は精神分析とか心理療法といったものをえらく買いかぶっているのではないかと思う。
 他人を救いたいという欲求と、支配したいという欲求は、実は同じです、ということだとすると、村上氏がこういう小説を書いている動機は何なのだろうと思う。氏には読者を救いたいという欲求はないのだろうか? この小説は、「個人としての目標を設定しないといけない。その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ。」というメッセージそのものとも読めるが、氏がそのようなメッセージを送ろうとするのも、そのことを自覚せず悲惨に陥ろうとしている人を救いたいからなのではないだろうか? 氏もまた人を支配したいのではないだろうか?
 オタク軍団とおばさん軍団の殺戮合戦というとんでもない小説「昭和歌謡大全集」では、村上氏は、オタクもおばさんも救おうなどとは毛頭思っていない。ただ無為の生を過ごしていた彼らが殺戮合戦という目標をもつことによってはじめて生き生きしてくる姿を描きながら、哄笑している。
 しかし、「希望の国エクソダス」では、小説の展開が自説の説教となるところにとても近くなってきてしまっていた。それでも、まだそれを相対化する視点がどこかで保たれていたが、この小説では、自立が人を救うという見方を相対化するものが無くなってしまっている。確かに自立が人を救う症例提示としては非常にうまくかけている。しかし、村上氏ほどの力量のある物語作家であれば、同様に依存が人を救う話だってかけてしまうかもしれないので、それがどうしたという印象は否めない。
 この本は村上氏の本としては珍しくあまり売れなかったらしい。「置き去りにされる人びと すべての男は消耗品である。Vol.7」で、「ということは日本はまだまだ自立しようという意思がないのだ、これがベストセラーになったら、俺はもう書く意欲を失っていたかもしれないが、売れなかったということは俺は日本のマイナーなのであることを示しており、マイナーである限り俺は書き続ける」みたいな変な負け惜しみを書いているが、要するに売れなかったのは小説として面白くないからである。誰も小説を読んで説教されたいとは思わない。
 小説家として村上氏は危機的なところに来ているのかもしれない。


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

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