赤川学 「子どもが減って何が悪いか!」

  [ちくま新書 2004年12月10日初版]


 タイトル通りの本である。現在の日本の少子化を論じて、それが何らかの対策をたてることによって回復させることが不可能で不可避的な現象であること、少子化の対策として論じられる「男女共同参画社会」論(男性と女性が仕事と子育てをともに分かち合う社会をつくれば、女性は子どもを産むようになるという議論)は、それ自体間違いであり、男女共同参画社会ができても、少子化の進行は続くだろうこと、それにもかかわらず、男女共同参画社会そのものは目指されるべき目標(の一つ)であること、男女共同参画社会を論じる過程で、きわめて杜撰な統計の扱いがなされていること、などを論じたものである。
 まず、リサーチ・リテラシーから。これは統計データを批判的に見ることである。非常によく引用される女子労働力率(ある国で女性がどのくらい働いているか)と出生率の相関の図(女性がよく働いている国のほうが出生率が高い)は、もともと少ないサンプル数(13)で論じられているため、それ自体が問題あるものであるが、サンプルをもっと増やしていくと、関連がなかったり、女性は働いていない国のほうが出生率が高いことが示されようにもなってくる。とするとこの有名で頻繁に引用される図は、結論が先にあって、その結論に有利に働くような国だけを集めてきて作くられたものである疑いが非常に濃厚であることが、非常に腑に落ちる形で示されている。
 次が相関関係と因果関係の違いの話である。仮に、女性がよく働いている国のほうが出生率が高いという相関が得られたとしても、それでも、女性が働きやすい環境が子どもを産みやすくしているとはいえないということである。一般に、農業中心の社会では、出生率も高く、女子労働力率も高い。それが近代社会に移行してくると、両者ともに低くなる。さらにサービス産業中心の社会に移行すると、今度はまた女子労働力率が高くなってくる。そうだとしたら、国の第三次産業・サービス業の程度が問題なのではないかかという議論が提示され、事実かなりの部分がそうであることが示される。
 さらに、関係が逆なのではないかということも示される。女子が働きすい国で子どもを産み易いではなくて、子どもができたから(経済的に苦しくなり)働かざるを得ないということもありうるではないかと。
 ここで目から鱗であったのだが、わたくしなどには、女性が働くということで、すぐに会社での女性の扱い、一般職と総合職、お茶くみ、コピーとりといったことが頭に浮かぶのだが、実は農村地帯のほうが圧倒的に女性が働いているということ完全に忘れていた、あるいはそのことにまったく頭がいっていなかった。農村は貧しく女性の労働なしにはなりたたないのである。フェミニストがいう女性が働き易い環境作りにも、農村のことなどはまったく視野に入っていない。つまり、フェミニストは働く意欲がある女性が働ける環境作りをいうのであるが、農村での女性の労働は女性がそうしたいからしているのではなく、やむをえず強いられていているものと思っている。だから農村で女性労働力率が高いということは克服されるべき課題なのである。
 高度成長期の専業主婦の増加は、地方からでてきて都会のサラリーマンの奥さんになるということが、ステイタスの上昇であり、かつ過酷で強いられた労働から解放でもあったことよりもらたらされたものとされている。つまりある時期、女性は喜んで専業主婦になっていたのであり、社会に進出したいと思いながら家庭に閉じ込められていたのではなかった。しかし、都会化がさらにすすみ、都会に住むことが当たり前になってきて、女性が社会に進出したいという意欲をもつようになると、今度は高度成長期に固定化した社会体制となってしまった専業主婦体制が、桎梏となってきたのである。
 統計によれば、農村のほうが出生率が高く(高いのは沖縄・島根・宮城・福島など、低いのは東京・京都・神奈川・千葉・大阪など)、また女性の給料があがると出生率が下がる現象が見られる。それならば、日本を農業国に戻し、女性の給料を下げれば出生率があがるかもしれないが、そういう提言をする人はいない。そして出生率が高い地方でも以前に比べれば、それは低下してきているのである。簡単にいえば、今から50年前の日本にもどればあっという間に出生率は回復する。しかしそれが少子化対策といえるだろうか?
 以上、さまざまな議論を通して、少子化は都市化に必然的にともなう現象であって避けることができないものであること、男女共同参画社会自体は望ましいものであるが、それは少子化対策として追求されるべきものではなく、それ自体として追求されるべきものであること、これからの社会設計は少子化自体を所与のものとしてつくられなければいけないことなどが述べられていく。
 そして、そもそも子どもをつくるというきわめて個人的な営為について、なぜ国が政策的に介入してくることが正当化されるのかという根源的な問いが提示される。少子化では国が滅びる⇒国が滅びて何が悪い! とまでは著者はいわないが、子どもをつくることを「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても何の制裁もうけない制度設計を!」という。ところで、上野千鶴子は「性の自己決定」ということについて、「したいときに、したい相手と、セックスをする自由を。したくないときに、したくない相手とセックスしない自由を。そしてどちらの自由を行使してもどんな制裁も受けないこと」と定義しているのだそうである。しかしセックスには相手というものがあるだろうに。したいときに、相手がしたくなかったらどうするのだろうか? それはさておき著者の議論はリベラリズムからリバタリアニズムにまで及んでいく。
 トッドの「帝国以後」によれば、女性が読み書きを身につけると受胎調節がはじまるのだそうである。要するに教育が普及すれば、出生率は減少する。教育の普及自体はまさに地球の趨勢であって、それをおしとどめることはできない。とすれば少子化は地球の趨勢であって、日本政府がエンジェル・プランなどというものを作ったからといって、どうなるものでもないのである。
 本書にもいわれているが、10年ほど前には、女性が働くようになったから出生率が下がったという議論が一般的だったのだそうである。それがいつのまにか、女性が働き続けることができるような環境を作ることが出生率を上げることにつながるという正反対の議論になってきている。これはどう考えてもおかしなことである。
 おそらく、女性が働くようになった(つまりはそれは高等教育の普及の結果である)ことは出生率を低下させるのであろう。それは出生率を低下させるにしても、いいことなのである。女性の社会進出を応援するフェミニズムの立場の陣営もその因果関係に気づいているものと思われる。しかし、女性が社会進出すると出生率が下がるという批判をかわすために「男女共同参画社会」が実現しないから、少子化がおきるという議論をもちだし、少子化が進行する中で、まだまだ「男女共同参画社会」からほど遠い現状にある、もっと「男女共同参画社会」を! そうすれば少子化現象は逆転できるという反証不能の議論の中に逃げ込んでいるのである。まだフェミニズムの陣営も「子どもが減って何が悪い!」という勇気をもてていないのである。女性が社会に進出すれば、子どもが減る。当然ではないか? それは社会に引き受けるべき当然のコストである、そういいきる自信がないのである。
 本書の「あとがき」に小谷野敦氏への感謝が書かれている。これは氏の応援によってできあがった本なのであるという。小谷野氏のいう「事実につく!」のよい例となっている本である。もしも性差が生物学的に相当部分が規定されているという「事実」があったときに、そういう事実は女性解放への運動に水をさすものであり、発表してはならない、というようなものがあれば、それは間違いであるという単純なことを小谷野氏はいっている。しかし、E・O・ウイルソンに対する水かけ事件、あるいはウイルソンに対するS・J・グールドらの批判「ウイルソンの議論は、政治的な現状を肯定し、社会の不平等を正当化するために使われる可能性がある」という批判は、それに近いものがある。さらにこの問題はプリグモンらの「知の欺瞞」あるいは「サイエンス・ウォーズ」といった話題につながっていくものであろうが、ここではそこまでは話を広げない。
 この本はフェミニズム陣営からコテンパンにやられそうな本であるが、どうも最近フェミニズムというのは旗色が悪くなってきているなという気がする。内田樹氏ではないが、そろそろ賞味期限がきれかかってきているのかもしれない。

 この本を読んで、医療における統計データはリサーチ・リテラシーが必要なものが多いのではないかと感じた。たとえば、尿酸値と何らかの動脈硬化の程度を示す指標が相関したとする。そこから尿酸は動脈硬化促進因子の一つである。したがって動脈硬化予防のため尿酸高値のひとには投薬して尿酸値を下げるようにするべきである、などといった議論が広くおこなわれている。この場合、共通の因子(たとえば何らかの生活習慣)が一方で動脈硬化を促進させ、他方で尿酸も上昇させるということがあるかもしれない。そうであるならば、投薬して尿酸値を下げるなどということは何ら動脈硬化促進予防にはならないかもしれない。しかし、利害を有するもの(たとえば製薬会社)は、自分に都合のいいデータ、都合のいい解釈のみをオープンにして、そうでないデータは公開していないかもしれない。
 また、「してもいいし、しなくてもよい。してもしなくても何の制裁もうけない制度設計」というような部分は昨今の禁煙キャンペーンをすぐに想起させる。煙草を吸って自分の命を縮めるのは自業自得である。その人が吸いたいのに、はたが強制してやめさせるなどというのは、余計なお世話である。だから、現在、禁煙運動の最大のよりどころは、間接喫煙の弊害の問題であろう。しかし、直接煙草の煙を自分の肺に吸い込むのと、その周囲にいて大気で大幅に希釈された煙を吸う人間が、それほどオーダーの違わない健康障害を生じるというのは常識的に考えても理解しづらいところがある。
 間接喫煙の害を示すデータというのはリサーチ・リテラシーにてらして問題があるのではないかと昔から思っているのだが、そういう検討さえできないような雰囲気があるのかもしれない。喫煙の利点などを示したデータは現在まず学術誌に受理されないそうである。
 せめて「事実につく!」時代になってほしいものであるが、「事実などというものはない! あらゆる偏見から逃れたただの事実などというものはない! 事実と称するものはそれを観察するものの利害ですでに汚染されている!」というのが、ポストモダン時代のの言論の潮流なのである。
 しかし、間接喫煙がどのくらいの弊害をもつかということは、喫煙に反対するひとにとっても、喫煙を許容するひとにとっても所与のものとしてあるべきであって、あるデータが禁煙派からみると禁煙を奨励するデータであり、喫煙許容派からみると喫煙を許容するデータであるなどということがあるのならば、そもそも学問というものは存在できなくなってしまうようにも思うのだが・・・。
 でも、ここにくるともう「知の欺瞞」の世界になってしまうので、とりあえず、議論は打ち切ることにする。


(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)


子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

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