西内啓「統計学が日本を救う」(1)

  中公新書ラクレ 2016年 11月
 
 西内氏の本は以前、「統計学が最強の学問である」が評判になったときに読んだが、あまりぴんとこなかった。基本的には、こちらの数学の基礎力が足りないためであると思うが、もともと統計学というものについてなんとなく信用しきれない感じを抱いているということもあるのだろうと思う。
 最初に統計学に本格的に接したのは、教養学部のときの高橋晄正氏の統計学の講義だったように思う(推計学という名前だったかもしれない)。当時の高橋氏は医学を科学にするのだと大変な鼻息で、「対照実験」とか「二重盲検法」を導入することにより医学部を少しでも学問の府にしていくのだと主張されていた。なにしろ、そのころの日本の医学界といえば、学会のボスが、「おれがこの薬を使ったら効いた」といえば、その薬が保険収載されるというアナクロな時代であったので、学生達も氏の怪気炎に拍手を送っていた。細かいことは覚えていないが、本来医学部に進学してから行われる統計学の授業が例外的に前倒しで教養学部でおこなわれたのは、学生達の強い要請によってであったのではないかと思う。教養学部から医学部に進学したときに大学紛争が燃え上がり、気がついてみれば、高橋氏は全共闘運動の熱心な擁護者になっていた。おそらく、効きもしない薬を製薬会社の提灯持ちをして有効と強弁する似非学者への反感と慷慨が、自分たちの権威を守るために己の非を認めることを頑なに拒否する大学当局への反撥と重なっていったのではないかと思う。しかし、全共闘運動といえば「非科学」の極致のようなものだと思っていたので(何しろ「情念」一筋なのだから)、よくわからないなあと思ってみていた。
 少し話の方向がずれたけれども、統計学が客観的であるのかということがどうにも腑に落ちない。大学にいたころだから、もう30年以上前のことであるが、ある薬の治験の発足の会の末席に連なったことがある。その会に統計解析の担当として加わっていた統計学の専門家が「どんな結果がほしいですか、どんな結果でも作れます」といったようなことを言っていたのが妙に記憶に残っている。まさか黒を白ということはできないではあろうが、サブ解析とかでいろいろとデータをいじることによって、よほど頓馬なデータでなければ、有効性を示すことは可能であるといった口ぶりであった。もっともその治験薬は大きな副作用が見つかって、ほどなく開発計画は中止されてしまったが。
 ある薬を有効であると主張する人たちが、それを示す統計データを持ち出し、いや無効であると主張する別のグループが別の統計データを示すといったことはしばしばある。両者ともに自分たちの主張は主観的なものではなく、客観的なものでエヴィデンスにもとづくと主張する。統計サンプルの大きさによって、無効が有効になったりすることもある。ある状況である薬を用いることの正当性は一意的に決定することができると一部のEBM(エヴィデンス ベイスド メディシン)を支持するひとたちはいっているが、そうなのかなあという思いがわたくしにはある。それはわたくしがEBMを充分に理解していないためであるのかと思うが、そういう偏見がなかなか解消できない。
 そういう人間が本書をうまく理解できたかはなはだ心許ないところがあるが、本書で提示されている「少子高齢化」「貧困」「医療コスト」といった問題について多く教えられることろがあったので、以下少しのべてみたい。(最終章の経済成長を論じている部分については、正直よくわからなかった。)
  
 少子高齢化などの日本の直面する問題について、それはもはや絶対的に回避することができないものであり、運命としてうけいれるしかない問題であって、それを覚悟したうえで、日本人としてのアイデンティティを失うことなく、これからも心豊かに生きていこうというような方向の言説に、氏は激しく反撥する。こういう言説に統計学のデータによってはっきりと反論をしていこういうのが本書執筆の強い動機になっていると思われる。
 こういう「心豊かに行こう路線」(わたくしが勝手になづけるところの佐伯啓思路線)はわたくしも嫌いなのであるが(もっとも渡辺京二路線は嫌いでない・・氏は心豊かになどということは決していわないと思うが)、心貧しくたばたしながらゆっくりと没落していくしかないとわたくしは思っていたので、本書の「どうやって経済成長を果たすか」とい終章の問題提起の方向には虚をつかれた。
  
 ということで、まず最初の「統計学が導く少子高齢化の真実」の章から。
 現在、高齢化の進行による社会保障費の増加などにより日本は膨大な借金をかかえており、その削減のためには防衛費や公共事業費を削減すべきという議論がある。しかし、その両方をゼロにしても現在の借金返済には3000年もかかる。本当の問題はそこにはない。なぜなら、日本の支出の最大のものは社会保障費であるからである。年金 11.3兆、医療 11・3兆、介護 2.9兆。もしこれらを全廃したらどうなるか、50年で借金をゼロにできる。
 もちろん著者はそれを主張するわけではない。もしも日本の財政が将来完全に破綻して経済が大混乱に陥って、医療や介護や年金の制度がまったく機能しなくなったらどうなるか?ということを述べる。これはすでに実際に経験されている事態である。ソヴィエト崩壊時には970万人の成人男性の人口が減ったし(主因はアルコール)、男性の平均寿命は1991年から94年までのわずか3年で、64歳から58歳まで縮んだ(この寿命減少の傾向は、ソ連崩壊前の混乱期から見えてきており、それによりE・トッドがソ連の崩壊を予言したことは有名)。
 IMFの主導による緊縮財政の強要の例としてはギリシャがある。2008年から2011年にかけて乳幼児死亡率は40%も増加している。経済的危機が人命を奪うことは明らかである。日本も経済破綻に直面したら、同じ道を歩むことになることは明白である。
 平均寿命を規定するもっとも大きな要因は乳幼児死亡率である。同時に日本の世界最高の高齢化をもたらしているのは出生率の低下(少子化)である。人口学的にはこれは1960年ごろから予言されていたし、様々な少子化対策がとられてきた。まず問題にされたのが、「20代女性の未婚率の上昇」であり、「女性の社会進出に伴い経済力が向上して、独身生活の魅力が増えた」というような点であった。しかしそれに対して施行されたエンゼル・プランなどは出生率の低下を改善させなかった。またこれらの施策には経済団体も、企業活動に支障が生じるとか現在の社会慣行に抵触するといった理由で消極的であった。いずれにしても少子化対策は不十分であった。特に団塊ジュニア世代が低出生率のままで若い時代を過ごしてしまったことが、あとあとに大きな禍根を残した。これらの対策は一年でも早く実効がでれば、あとに好循環が生じていくのだから。
 そこで西内氏は科学的根拠にもとづく(データに依拠した)少子化対策を示す。まずOECDのデータをみれば、女性の社会進出と出生率の低下が相関するという説(フェミニズム嫌いの日本の保守的おじさんがよく主張する説)には根拠がないことは一目瞭然である。問題はそこにはない。a「育児にかかる経済的負担の軽減」、b「産休・育休の充実」、c「公的保育サービスの拡充」、d「女性のパートタイムでの働きやすさ」の4点こそが重要であることがデータからすぐにわかる。日本ではbとdは悪くはない。だが、aとcについてはまだまだだである。そして統計データをみると、この2点を改善できれば、日本の少子化はほど解消できると推定できる、と西内氏はいう。
 aの経済的負担については、子供がいる共働き夫婦と、いない共働き夫婦で実質的な所得の差が存在しない水準となるような公的な扶助ができることが目標となり(現在の日本の児童給付の水準は先進国でも最低のレベル)、cについては、2歳以下の人口に対して50%の保育サービスの定員確保が目標となる(現状は22%くらい)。国がするべきことは明らかで、この二つについての徹底的な改善がその方向であると西内氏はいう。
 では、その財源は? 高齢者にかかるコストにくらべれば、少子化対策にっかるコストは微々たるものなのだそうである(高齢者対策 25兆円、少子化対策 2兆円)。
 以上が第一章で、とりあえずここまでについて考えてみる。
 
  ここで西内氏が日本との対照として用いているのは主としてOECDなどのデータではないかと思うのだが、その彼我の文化的背景の違いということについてはあまり考慮されていないように思う。
 わたくしが若いときには、婚期とか適齢期とか行き遅れとかオールド・ミスといった言葉があった。25歳を過ぎてまだ結婚していない女性は婚期を逸したとされ、オールドミスと(陰で)いわれたりしていた。女性は結婚するのが普通であり、結婚は25歳くらいまでにするべきであるという社会的な圧力が厳然として存在していた。
 それは今ではほとんどなくなってしまったといっていいのではないかと思う。おそらく30歳くらいまでの女性に早く結婚しろとおせっかいをやくひとは激減したであろうし、女性もいずれ結婚と思っていても頭に漠然とあるのは35歳くらいまでに結婚というイメージであり、さらに結婚しても子供は40歳くらいまでにという生物学的にはありえないようなことを考えているのでるから、少子化は必然の結果ではないかと思う。
 氏の提言で、「子供がいる共働き夫婦と、いない共働き夫婦で実質的な所得の差が存在しない水準となるような公的な扶助」ということがいわれているのだが、ここに夫婦ということを入れる必要があるのだろうか? シングルマザーはどういうことになるのだろうか? ここは「子供がいる共働き夫婦と、子供がいるシングル・マザーと、子供がいない共働き夫婦とで実質的な所得の差が存在しない水準となるような公的な扶助」とならないと駄目なのではないだろうか?
 日本では適齢期とかオールドミスという言葉はなくなったが、「未婚の母」への差別意識は非常に強くある。結婚してその後離婚して、子供を育てている母親についてはまだいいとしても、結婚していないのに子供がいる母親には非常に厳しい。
 「できちゃった婚」などという言葉が日本以外にもあるのか否か、寡聞にしてわたくしは知らないが、わたくしが若いころには、娘に子供ができたことがわかりあわてて結婚式場の確保に走っているお父さんを時々みたものである。現在では結婚式で新婦のお腹が大きいことなど誰も気にしない。
 20年くらい前、われわれの子供の世代で結婚とい話があると、「おめでとうございます。それでお子さんはいつお生まれで?」というような話がしばしば出たものである。つまり結婚などという煩わしいことは誰だってしたくはないが、そのしたくないことをする以上は子どもができたというような背景があるに違いない、というような認識がかなりの範囲で共有されているようなのである。
 そういう認識があるところではなかなか子供は増えないだろうと思う。わたくしが考える少子化対策というのは、嫡出子と非嫡出子の一切の差別の廃止である。妊娠することは女性にしかできないし、育児の相当部分もそうである。夫は何をしているかといえば、主としてお金を稼いで運んでくることである。そうなら、国が夫の変わりをすればいいのである。
 旦那なんかはほしくもないが子供はほしいという女性もたくさんいるのではないかと思う。日本でそのようなことを通そうとすると、よほどの覚悟があって経済力があるひとでないとまず無理であろう。そうではなく、誰にでもそれが可能ということになれば、出生率は随分と上がるであろう。
 もちろん、批判は容易に想像される。子供さえ作れば国から生活できるだけのお金がでるのであれば、子供のいないひととの差別ではないか? もっといえば、全然、働く気のない女性が子供をたくさんつくるだけで(それも全部、父親が違うような、あるいは母親にさえ父親がだれであるかわかないような子供を)、生活がなりたつというのはおかしではないか?とか。しかし、子供がある数いることが国家にとって喫緊に重要なことであるとすれば、その女性は国家に大きな貢献をしているわけである。本書の後の話題とも重なるのであるが、そういう子供たちにもきちんとした教育の機会があたえられることも絶対の条件ではあるのだが。
 本章の末尾に「人口統計学の考え方」というコラムが付されいる。本章を読んでいてつねに引っかかっていたのが、人口統計学者であるE・トッドの本のどこかに書いてあった「女性の識字率が上がると出生率は下がる」という話であった。もっというと、子供を産むことが女性のコントロール下に入るようになるとし出生率は下がるというのである。識字率の向上→女性の意識の向上→妊娠・出産というまさに自分の身におきることの決定権は自分にあるという意識の出現という方向は子どもの数を増やす方向には決して働かないという主張である。これを読んだときには、なるほどそうなのかと思うところがあって、そうであるとすれば、日本の少子化も必然なのだなあとふかく頷いたものであった。本書にはそういう方向からの考察はあまり見られないようであった。
 われわれが地球の上で現在まで生き残ってこられたのは、女性のどこかに子供を産むことが幸せであると感じさせる何かが遺伝的に埋め込まれれているからである。しかしそういう生物学的なもの先天的なものは段々と文化的なもの後天的なもので押さえられていくわけである。しかし、そう言う方向は女性にとって不幸なのである。女性の幸福は子どもを産むことなのである。子宮を空にせず、いつも妊娠しているのが最高の女性の幸せなのであるというような、なかなかのことをいっておられる方もある。
 ここでのわたくしの論は、一切データに基づくことのない、いたって非科学的なものである。しかしどうもわたくしはEBM(証拠に基づく医学)というのに昔から抵抗があって、EBMというのが、医療訴訟対策として導入されたのではないかという偏見をすてきれていない。医療は結果責任の世界であるから、なかなかエビデンスがあればいいというものでもないように思う。
 本書のタイトルが「統計学が日本を救う」である。しかし、「日本などどうなってもいい、自分が幸せかどうかが大事」というのが戦後の一番基本的な流れであると、わたくしは思う。そうすると、少子化ということもそこから必然的に生まれてきたところが多分にあると思う。はやりわたくしには少子化という流れはどうにもとまらないものなのではないかと思えてしまう。
 次の第二章は社会福祉の問題を論じている。
 

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