西内啓「統計学が日本を救う」(4)

 第4章「経済成長を実現するために今できること」
 
 最終章である本章では、話題が一般化されて、経済成長の問題が論じられる。
 著者はいう。まだまだお金で解決できる不幸がたくさんある。もしもっと政府が潤沢にお金が使えるならば、もっと不幸を減らせるはずである。日本の高度成長の原動力の大きな要因が読み書きや計算の能力といった人的資本の集積がすでにあったことである。
 一人あたりのGDPでみると日本はかなり低い。ルクセンブルグの三分の一、北欧の半分といった水準である。日本のGDPが多いのは人口が多いことによる。
 経済成長に寄与しうる最大のインパクトは学力の世界レベルへの向上である。しかし日本では教育にお金がかけられていない。先進国のなかでも公的教育への投資はきわめて低い。(家計からの私的な投資がそれを補っている。)
 論文数などをみても日本の研究力は低下しつづけている。公的な投資は少なく研究の7割が民間企業による。
 農林水産業のような生産性の低い分野に投資すべきではない。
 最後に本書で述べられてきたことが相関関係ではあっても因果関係ではない可能性があることが指摘される。著者もそれをみとめる。だからこそランダム化比較実験をはじめるべきであることを指摘して稿をおえている。
 
 本書で著者が述べていることはかなり長期的な展望にたっての提言である。一見すると効率が悪いようなことも長期には大きな花を開くことになるという方向である。そして著者が慨嘆するように長期的な視野にたった政策の展開をはばんでいるのが次の選挙に落ちると困る政治家である。しかし昨今の世界を動向をみると、長期的な展望どころか短期的な視野あるいは、あるいはそれすらもなくて現在の感情がいろいろなことを動かすようになっているようにも感じる。
 著者の依拠する統計学は事実のなかに何かをさぐろうとする学問である。事実の対極にあるものが価値である。本書のなかでも医療の問題がいろいろと論じられているが、そもそも医学という応用生物學が大きな顔をしているのも、人間が自分の種を他の生物種よりも断然大事であると思っているからで、獣医学だって人間のためにあるのであって犬や猫のためにあるのではない。
 著者は本書で日本という枠組みでいろいろと論じているが、日本なんかどうなっても構わない、自分がどうなるかが問題だという立場もまたありうる。
 本章で教育研究の重要性ということが強調されているが、これだって著者が広い意味での学問研究の場にいるからそうなっているという可能性も完全には否定できないかもしれない。
 ここでいわれている学というのが、いわゆる読み書き算盤といった基礎的な学問能力とかなり高度な教育研究の能力の双方にかかわっているように思えるので議論が読み取りにくいところがあるのだが、工業がテイクオフできる条件としては、最低限の読み書きの能力が労働者に備わっているということが必須であるらしい。使用説明書やマニュアルが読めて理解できないと困るということである。このレベルでいえば日本はきわめてレベルが高いことはいうまでもない。
 しかし著者がここでいっている教育ということの比重は明らかに高等教育のほうにかかっているように思われる。そしてそのレベルは明らかに低い。大学生が全然勉強していない。他人のことはいえないので自分のことを考えても大学時代に勉強したような記憶はほとんどない。とにかく医学の勉強というはつまらなかったという記憶しかなくて、何しろ血は沸かず、肉は踊らなかった。なんでそうなったのかというとその前に血が沸いて肉が踊る経験をしたからで、それは医学部進学の時の一年間の学園闘争あるいは紛争であった。何しろそれまで自明であると思っていたことが少しも自明ではないこと判明することが次々におきてくるわけであるし、まわりの人たちがしていることがまるで理解できない場合も多いわけで、とにかく本を読んだしいろいろと考えた。もしもものを考えるということが学問ということであるならば、大学在学7年間のうち、一番学問をしたのが大学が機能していなかった教養学部と医学部の間の1年間であったということになる。そして医学部の授業がなぜつまらなかったかといえば、医学あるいは医療というものの存在の自明性を少しも疑っていないように思えたからで、要するにそこで教えられていることはノウハウでしかないように思われたということである。ベイトソンの「精神と自然」での言い方を借りるならば、「前提がまちがっていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノーハウしか学ぶことができない」ということになるのかと思う。医学部での授業は死体学であるとしか思えなかった。
 後年、養老孟司氏の本を面白がって読むようになったのも、氏が一貫して前提を疑うということをしてきているからなのであると思う。そしてポストモダン方面の本を面白がって読んだ時期があるのも、ポストモダンというのが西洋近代という前提を疑うことを志向したものであったからであると思う。わたくしが最終的に吉田健一に帰依することになったのも、吉田氏がわれわれが明治期に受け入れた西洋というのがまがいものの西洋であることを指摘してくれた点にあるのだと思う(借りものの まがいものの/ 出雲よ/ さみなしにあわれ)。
 われわれ全共闘世代というのははなはな評判が悪いけれども、若いときにある程度はものを考えるということをした世代ではないかと思うだが。そこから先、思考停止を続けているのだろうか?
 さて西内氏がいう高等教育であるが、これが主として理系の学問を指すのか今一つよくわからない。文系の学問の位置づけはどうなっているのだろう。最近、文系の学問への風当たりは極めて強いようである。そんなものが何の役にたつのかという議論である。そういう論に対しては文系で教鞭をとっている先生方は「そもそも学問は役に立つためにおこなっているのではない」という方向から反論するのではないかと思う。では、その先生方はなんでそういう学問をしているのかといえば自分が面白いからである。だから本当はずっとそればかりをしていたいのであるが、どういうわけか大学には学生というものがはいってきて、それに何か教えなければいけない。しかし学生さんのほうもそんなものが聴きたいと思っているわけではなくて、ただ卒業免状がほしいだけである。というようなことろに国が補助金をつぎ込んだりしても意味があるかという疑問を金を出す側がもつのは当然であって、したがって文系の学問も役に立ちますということを強調せざるをえない。文系で一番実用性が見えるのは語学であるから、ひとつはそちらに走ることになるらしい。しかし、現在フランス語やドイツ語を学ぶことにどれだけの意味があるかということがあって仏文科とか独文科とかはとても肩身が狭い思いをしているらしい。まだスペイン語ポルトガル語、中国語のほうが実用性があるのかもしれない。日本文学になるとたぶん悲惨で日本語を教えるなどいうのを日本人にすることに意味があるとはまず思えない。では法学とか経済学が役にたつのかといえば、それもよくわからない。文系でまなぶひとのほとんどは学者になるのではなく、社会にでて働くことになる。社会にでてから大学でまなんだことが役にたつことはほとんどないとすると、大学時代から職業教育をせよという意見がいろいろなところから出てきているらしい。しかし会社の側からいっても学生が大学で何を学んだがということにはほとんど興味がなく、大学でまじめに勉強しているかにも興味がなく、とにかくそこの大学に入れる程度の頭脳があればよく(「地頭がいい」とかいうらしい)、あとは自分のところで鍛えるからというような考えらしいので、国がいくら教育予算をつぎ込んだところで効果が出るようには思えない。
 理系の学問については事情がかわってくると思われ、西内氏が意識しているのもその方面ではないかと思うが、ここではっきりとは書かれていないがトップレベルの人に集中して予算を投入して徹底的に鍛えるというのは(特に根拠はないが)効果が期待できそうな気がする。ただ平等志向で「足を引っ張る」国である日本ではそいうエリート教育は正面きっては主張しずらいかもしれないし、せっかく教育しても頭脳は海外へ流失してしまうような気がする。そうであるならそういうトップレベルの人材にも日本が魅力的であるようにしていくという方向があるように思われるが、これは格差肯定という批判を当然まねくであろう。
 教育ということについてわたくしがいつも想起するのがトッドの本で読んだ女性の識字率が向上すると産む子供の数が減るという話である。教育ということには大きくいって二つの効果があるように思う。一つは知識の習得であり考えるということであり、もう一つは考えるということから派生するものであるのかもしれないが、自分意識の向上である。「類」という意識から「個」の意識へ、である。識字率が向上すると多産ではなくなるというのも「類」の意識から「個」の意識へという変化の一つのあらわれであるのかもしれない。人間に「個」の意識が強くなりすぎるというのは人類にとってはよくないことであるのかもしれない。そうであるなら「学問」は人類にとっては長期的には厄災であるのかもしれない。
 最近のアンチ=エリート、反=知識人の動向も、人間が頭で何かを構想していくという行き方への反対という意味も持っているのかもしれない。
 本章での教育の意義についての氏の傾倒はやや方向に偏したところがあるのではないかと感じた。
 

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