許光俊「オレのクラシック」

  [青弓社 2005年7月15日初版]


 この人の本ははじめて読むが、クラシック音楽について言いたいことを言っているので有名な人らしい。非常に古風なクラシック音楽観をもっている人である。その点では丸山真男などと同じなのだけれど、自分の音楽観がもはや絶滅寸前のものであることをよく自覚している点において丸山真男などとは大きく異なっている。ヨーロッパ近代というのがどれほどの害毒をわれわれにもたらしたものであるとしても、それでもやはりわれわれにとって魅力的としかいいようのない何かを残したのも事実であり、それがクラシック音楽というものの中に凝集されている、しかしヨーロッパ近代はその最後の輝きさえもが最早消えようとしているのであり、クラシック音楽を支えたある種の貴族的な精神性といったものも、すでに嘲笑の対象にすらなろうとしている、しかし、それでもオレはそういう精神性、貴族性を愛するのだ、というのが著者の姿勢である。だから、「オレは、基本的には聴衆はバカだと思っている」などと平気で書く。しかし、そういうバカたちがいなければ(本当はいてさえもなのかもしれないが)、クラシック業界はなりたたないこともまたよく理解している。
 クラシック音楽を支えた普遍性、真実、真理、理念、理想、永遠などといった概念がもやは嘘っぽいものとなってしまった、それは西洋文化、西洋文明が相対化されたためだということを著者はよく自覚している。だから最近の演奏家は、壮大な真理や理念ではなく、自分の個人的な感じを示すのだし、精神的なことよりも感覚的なことのほうを大事にするのだということもよくわかっている。しかし、真理とか真実とか理想とか永遠とかいった西洋がつくりあげた壮大な嘘はとんでもなく魅力的ではないか、と著者はいう。クラシックとは芸術家独自の宗教なのだ、と。だが、現代とは、そういう嘘がなくても生きていける時代になってしまったのだ。だからもうクラシックはいらないのか知れない、そう著者はいう。同時に許氏は、ドイツあるいは東欧とかの人間が嫌いらしい。コミュニケーションに生きるイタリア人のほうが好きだという。
 そういう明らかに矛盾した思いが一人の人間のなかに同居しているから、本書が面白いのかもしれない。
 西欧クラシック音楽の面白さのある部分を構成するのは、西欧一神教からしか生まれないような神の代理としての世界創造を模倣した作品である。マーラーなどはその典型であろうか? マーラー交響曲以外の作品をほとんどつくらなったこと、本書でも許氏がこだわる作品の多くがオーケストラ作品であるでることは、許氏が西欧のエッセンスとみているのが神の成り代わりとしての壮大な交響作品であることを示している。親密なコミュニケーションから成り立つ室内楽の方向にはあまり興味がないようにみえる。
 われわれはもやは確固かる自己とか統一した自我とかいったものを無条件に信じることができないのだが、クラシック音楽を聴いているある瞬間には、それの幻像をみることができる。マーラーの誇大妄想とかブルックナーの時代錯誤的な壮大な伽藍のような世界とかは確かに西欧でしか生まれないものである。
 しかし同時にカデンツァの原理、T−S−D−Tという構造もまた西欧世界にしか生まれなかった。こういう機能和声の原理は理想とか理念とか理想とか永遠とかとは関係なくしかも普遍性をもったものとして西欧音楽をつらぬいている。こういう和声学といったものもまた西欧でしか生まれなかったものであり、シェーンベルクも初心者向けの作曲の教本で、こういう原理を学ぶことによりまったく機械的に作曲できることを述べている。そこには精神もなく理想もないが音のもっている力がある。
 ある音が鳴らされたとき、そこには倍音を含むので低音のCは高次倍音にB♭を含む。そのためCの音はCEGB♭で下属和音に解決する。それがそのまま主和音に戻ればアーメン終止である。しかし本来の主和音に戻すものは属和音である。下属和音と属和音にはもともと繋がりがないから、それのブリッジとして四六の和音が挿入される。それでT−S−四六−D−Tというカデンツァができる。これはほとんど物理学が要請するといった原理であり、機械的な動きでさえある。精神などはまったく関係ない。西洋音楽の魅力にはこういった方面もあるのであり、いってみればハーモニーの魅力、ハモる魅力である。芸大の入試の和声課題の解答などにはいくらでも美しい響きがころがっているに違いない。その響きをつくるのはひたすら知識であり技術である。
 どうも許氏はハーモニーといった方面にはあまり関心がないらしい。これもまた西欧クラシック音楽の魅力の大きな部分をなすのであり、こういう方面をおろそかにして、精神とかいう方面にばかりいってしまうのもいささか危ないものがあるのではないかという気がする。
 いま読んでいる池辺晋一郎の「ブラームスの音符たち」では、論じられているのはひたすら音だけである。精神なんてでてくる余地もない。作曲家はそういう見方をするのであろう。あるフルート奏者と話をしたことがあるが、曲の解釈云々などということより、そのメロディーを息継ぎなしで一息に吹けるかというような方面にもっぱら関心があるらしい。許氏のようなタイプのクラシックファンが交響曲の分野を偏愛するのは、オーケストラが例外的に指揮者という音を出さない人間が音楽を作る場であるからかもしれない。素人がおれならこう振るという感情移入がしやすいのであろう。ピアノやヴァイオリンであれば、自分ならこう弾くという移入がなかなかできない。技術による制約がみえてしまうからである。
 などといろいろ書いてきたが、クラシック音楽をきいていていつもわたくしが思い浮かべるのが石川淳の「精神の運動」という言葉である。われわれに精神というものがあるなどいったって、それは目に見えない。しかし、音楽をきいていると確かに精神というものが存在するなあということが実感される。そこで何かが動いているのである。これはポピュラー音楽では感じられない。ジャズでもそうである。もっとも精神というようなものが感じられないクラシックの作曲家もいてわたくしのとってそれはたとえばリヒャルト・シュトラウスでありサンサーンスなどである。
 わたくしがクラシック音楽を聴くのは精神の存在を実感したいためなのかもしれない。だから許氏のいっていることはよくわかるのであるけれども、なんだか正面きってそういうことをいわれると、もっと違う面もあるよというようなこともいいたくなる。われわれがクラシック音楽をきいているときに何も精神修養のためにきいているのではないと思うから。

(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

オレのクラシック

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