R・ダール 柳瀬尚紀訳「チョコレート工場の秘密」

  [2005年4月30日初版]


 最近知ったのだがダールの子供向けの本の新しい(あるいは改訂版の)翻訳シリーズが今年春から刊行されつつあるらしい。その一冊。
 「チョコレート工場の秘密」はダールの子供向けの本の代表作で田村隆一訳で以前でていたが、その翻訳をけちょんけちょんというのが、本書のミソである。たぶん、以前、田村隆一訳も読んだこともあると思うのだが覚えていない。読んだのは、丸谷才一のどこかの本で激賞されていたからであると思う。手許にある原著は Puffin Book で、クェンティン・ブレイクの挿絵ではなくミカエル・フォアマンという人の挿絵。較べてみればやはりクェンティン・ブレイクのほうがいい。
 それで以前の翻訳のどこがいけないというのか? 例えば人名。主人公のチャーリー・バケット、Charlie Bucket なのだが、英米の姓に Bucket なんていうのはないですよ、と柳瀬氏はいう。だとすればこれはバケツ以外のなにものではないのだから、これはチャーリー・バケツとしなければいけない。また Veruca Salt。 これは Verruca (疣、胼胝)と Salt (塩)なんだから、イボダラーケ・ショッパー。Mike Teavee の Teavee はいうまでもなくTVだから、マイク・テレヴィズキー。
 ジョイスの翻訳で言葉遊びの訳に命をかけた柳瀬氏であるから、こういう訳になるのは必然なのであろうが、「アマゾン」での読者感想をみていると田村訳で育った世代からは相当な反発があるようである。
 こういう問題は翻訳に永遠につきまとうものであるはずで、フロベールの「三つの物語」の「まごころ」の主人公の名はフェリシテで即ち誠実である。それなら誠子さんにするか? そもそも、「Trois Contes」が「三つの物語」でいいのか、「Un coeur simple 」が「まごころ」でいいのか? そういうことにこだわりだしたら翻訳はできなくなる。
 三島由紀夫の「豊穣の海」の「春の雪」の主人公は松枝清顕であり、「奔馬」の主人公は飯沼勲である。これを英訳で読んでいる人は Kiyoaki Matsugae とか Isao Iinuma とかいう主人公の小説を読んでいるのであり、そこには「松の枝」とか「清らか」で「顕らか」とか、「勇気」とかのイメージは一切でてこない。わたしが「豊穣の海」最終巻の「天人五衰」が「新潮」で開始されたとき、何より変に思ったのは「天人五衰」の「衰」という字と、主人公の安永透という名前であった。何でライフワークの最終巻に「衰」なんて字を含む題名を選ぶのだろう(以前は「月蝕」という題名の予定とされていた。「蝕」という字もまた問題ではあろうが・・・)、安っぽいのが永く続いて透明である、というのは何と愛情のない名前であろうかと思った。こういう主人公の名前のもつイメージというのは翻訳ではほとんど落ちてしまう。それを無理やり柳瀬氏は翻訳で拾おうとしている。田村氏はそういうことに気がついていなかったわけではなくて、気がついていても、それを翻訳にもちこむことに否定的であったのかもしれない。
 ウンパー・ルーパーたち(これも柳瀬訳ではウンパッパ・ルンパッパ人)の歌う歌は原書では脚韻を踏んでいるが、柳瀬氏も本書でそうしている。田村訳でどうなっていたか覚えていないが、おそらく韻を踏んだりはしていなかったような気がする。詩人としての田村氏は日本語で韻をふむことなど恥ずかしくてできなかったのかもしれない。
 だから、名前とか韻とかは意見がわかれるところであるかもしれないが、「ガラスのエレベーター」の解説での柳瀬氏の見解には参ってしまった。
 And what an etraordirary little man he was! が田村訳では「それにしても、なんと、小さい人なんでしょう!」となっているのだそうであるが、この little は小さいではなくて、形容詞にあとにきて、親しみ、愛情、非難などの書き手の感情を示すものなのであると。「それにしても、なんとまあ、とんでもない人ですね!」というような意味らしい(もっとも、ブレイクの挿絵でもワンカ氏は小柄なようであるが)。原書で読んだとき、わたくしも「それにしても、なんと、小さい人なんでしょう!」だと思っていた。柳瀬氏は以前の訳はあまりにも原文理解が低すぎると書いている(念のため言えば、柳瀬氏は田村氏の名前を一切出していない。すべて「以前の翻訳」としている)。わたくしの英語理解も低すぎることがよくわかった。困った。
 「チョコレート工場」などのダールの子供向けの本の面白さの一番の根っこにあるものは何なのだろうか? 言葉遊び? 奇想天外な筋の運び? 登場人物の面白さ? 少なくとも第一にくるのが言葉遊びではないような気はする。だから言葉遊びの部分が前面にでた翻訳がでると、それに反発する人もまたでてくるのかもしれない。
 日本の児童文学の世界も結構、真面目な人が多いのかもしれない。ダールは真面目でありながら不真面目というような複雑な人で、それが今までは真面目の方向で単線的に受け入れられてきた。今度は複線としてではなく、別の遊びの単線としてまた紹介されているという気がしないでもない。複雑なものを複雑なまま紹介するというのはなかなか難しいのかもしれない。
 ダールの真面目部分というのは、テレビを見ないで本を読め!とアジテートしているようなところである。こういうところが真面目派に受けるのだろうが、でもねえ、という気がする。本にこういうことが書いてあったからといって、それではテレビを見るのは止めましょうという子供がいるだろうか? いそうもないように思う。わたしがテレビを見るのを止めたのは大学生の頃?読んだ團伊玖磨の「パイプのけむり」のどこかに「俺はテレビなんて馬鹿なものは見ない」といったことが書いてあるのを読んだことが一つのきっかけであったような気がする(そういう團氏も、のちにテレビの音楽番組の司会などをするのであるが。本書でもチューインガムを噛むのをやめなさいというアジテーションがあるが、ある子がでもこのチョコレート工場ではチューインガムも作っているのはなぜ、ときく場面がある。その質問を工場主のワンカ氏は無視する。大人の世界はなかなか複雑なのである)。だからそういうアジもまったく無効でもないのかもしれないが・・・。
 村上春樹もテレビを見ない生活を主張していた。テレビは文明の敵なのかもしれないが、でも人間はテレビの前で呆けることを幸福としているのかもしれない。飢えがなく、戦争もなく、テレビの前で呆けていられるというのは百年前の人間にはほとんど想像することもできなかった幸せであるのかもしれないのだから、それ以上を望むなどというのは、人間の思い上がりであるかもしれない。
 ところで、「チョコレート工場」の映画が近々公開されるようである。でも、これは本文と挿絵のほうがずっと楽しめるような気がする。


2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)

チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)