テレビ

 日本にテレビが普及したのはいわゆるミッチー・ブームの時だから、わたくしが小学校高学年のときで、我が家にテレビが来たのも、小学校6年の時だったと記憶している。大宅壮一一億総白痴化といったのも、その頃だったかもしれないが、もちろんそんなことは知る由もなく、もっぱらアメリカ製のテレビドラマをみていた。というか、このころテレビで放映されていたものの多くはアメリカ製のドラマだったと思う。順不動でいくつかあげてみると、
 〇パパはなんでも知っている:アメリカの家庭というのはごく普通の勤め人でも、広い芝生の庭つきの大きな家に住んでいるというイメージはこれによってつくられたような気がしないでもない。描かれている家庭の奥さんは専業主婦であったように思う。後で、原題が「Father knows best」であることを知って何といううまい翻訳だろうと仰天した。
 〇ソニー号空飛ぶ冒険:男性二人組がヘリコプターで様々な事件を解決する話だったと思う。そのヘリの名前がソニー号。番組のスポンサーもソニー。今だったら、こんなあざといことはできないだろうが、黎明期には許されたのであろう。わたくしはこのテレビ番組で、はじめてソニーという会社の存在を知った。
 〇ローハイド;西部劇。とりたてて記憶に残っている場面もないが、端役ででていたクリント・イーストウッドが後に高名な俳優、監督になったのには驚いた。その主題歌の英語が文字通り「一句も解せない」のには閉口した。
 〇ヒッコック劇場:一話完結の話のはじめ(と後にも?)ヒッチコックがでてきた。恥ずかしながら、ヒッチコックの名前をこれでしった。
 〇ペリー・メイスン:弁護士もの。これに触発されて早川ミステリのE・S・ガードナーのペリー・メイスンものを随分と読んだ。
 〇ローン・レンジャー:「単独行動の警備隊員」というような意味のタイトル? 白人の主人公とインディアンの従者という今なら絶対に作れないだろう設定の話。S・キングの「IT」の最後のほうに、自転車に乗った少年が坂を下るシーンで「ハイヨー・シルバー!」と叫ぶところがあるが、若き日に「ローン・レンジャー」をみていたわたくしには、その意味がわかるわけである。
 〇0011ナポレオン・ソロ:これは上記などより少し後のもので、ロバート・ボーン主演の007もののパロディー。副主人公を演じたデイヴィッド・マッカラムに人気がでて変なことになってしまった。橋本治のコラム集「ロバート本」と「デビッド100コラム」はその主人公を演ずる俳優の名前のもじりである。
 犬が主人公のものも2つほどあったような気がするが、動物ものは苦手でみていない。
 後、「ベン・・ケーシー」などの医者もの。どういうわけかテレビドラマで主演をはるのはみな外科医である。ベン・ケーシーも脳外科医であったような気がする。主人上についてはほとんど何も覚えていないが、何かででてきた老医師が、患者に「あなたのような科学の側の人間がどうして神の存在を信じることができるのですか」というようなことをきかれて、「人間の体の仕組みの精巧さと神秘を知れば知るほど、それを創造した神の存在の偉大を感じざるをえません」といったことを答えるシーンがあって、詭弁だなあ、しかしアメリカ人はこのような詭弁にころりと騙されてしまうのだろうか、というようなことを考えたことだけを妙に覚えている。

 以上、なんだかんだよく見ているなあと思うが、それがある時から、ほとんどみなくなった。きっかけは、團伊久磨氏の「パイプのけむり」を読んだことで、そこに團氏がテレビなどという電気紙芝居などをみているとただただバカになるばかりである。俺は一切、そういうものはみない、と書いてあるのを読んで「フーン」と思い、では自分もそれをやってみようかと、テレビを見ない生活を実践してみたところ、あら不思議、ひと月もしないうちにテレビをみなくても全然どうということはないことがわかり、それ以来、ほとんどテレビを見ない生活になってしまった。(実は、團氏の本では「パイプのけむり」と同じくらい面白かったのが「不心得12楽章」という女性論?で、まだ純真な高校生であったわたくしはずいぶんといろいろなことを教えられた。「パイプのけむり」が八丈島に住む世間を見下す高踏派的文化人としての團氏の本であるとすれば、「不心得・・」は、粋人風の国際人である團氏が書いたもので、今でも覚えているのがフランス女性との会話で、「メルシ・ボク・ボク」というのがでてきたことで、会話の流れからすると、この「メルシ・ボク・ボク」はフランス女性のものでなければいけないはずなのに、なんで「メルシ 僕 僕」なのかと思ったのである。メルシというのは知っていたが、ボクというフランス語はまだ知らなかったわけである。恥ずかしい。
 以上、昔のことで覚えているのは、どうもこういうくだらないことばかりである。そういう体たらくだから、予備校に通っていたときに習ったことについても、いまだに覚えているのが、ある数学の先生がいった「君たちがやっているのは数学ではない。本当の数学は、1メートル離れた2点の間に30cmの物差し1本で直線を引けるか」というような問題を考えることなのだ」といったこととか、某国語の先生がいった「君たちは、女性を見ると美人だとかグラマーだとかいって騒いでいるが、自分の歳になると、そんなことはどうでもいい。女は心だよ! 心! といいたいが、いつまでたってもダメなのだなあ! これはつまらん女だ、悪い女だ、とわかっていても、美人だとつい惹かれてしまう!」といった話とか。後者、いくら少数とはいえ、予備校の生徒には女性もいたはずなのだが。
 実は父がある時期テレビにでていた。そのころのテレビはまだのんびりしていて、昼のワイド・ショーに育児相談のコーナーがあり、小児科医の父が勤務する病院が某テレビ局の近くであったこともあってそこにでていた。このことで驚いたのが、地方にいくとテレビにでているひとは神様とはいわないまでも大著名人あつかいされることであった。すでにあったワイド・ショーの司会の木島則夫とか桂小金治とかの発言が大きな影響力をもっていた。
 今年3月末でいくつかの仕事をひき、昼間家にいることが多くなったので、ときどきテレビをつけてみると、ワイド・ショーというのはとんでもないことになっているようで、その司会者は全日本人を代表しているがごとき口吻である。最近、インターネット空間での誹謗中傷が問題になっているが、テレビ空間で素人があんなに偉そうな顔をしているのだから、ネット上の発言者がそれを真似たくなるのもまたむべなるかなという気がする。
 それでは専門家のいっていることはというと、専門家の意見もまた区々で全然かみあわないわけで、そうであるなら、それをみている素人が、これなら俺と特に変わらないではないかと思って、俺にもいわせろ!という気になるのもまた仕方がないのではないかという気がする。
 そうしてみると黎明期のアメリカ製のテレビドラマはとにかく30分とか一時間という時間、視聴者をひきつけておくということについては非常に真剣であったように思う。それに比べると、最近の「半沢直樹」というのはみてはいないけれど、新聞にかかれていることを読む限り、視聴者におもねているとしか思えない。こうやれば受けるな!話題になるな!と思う番組つくりをして、それに思惑通りに視聴者が踊らされているのだから、何をかいわんやである。

 飯島耕一に「川と河」という詩がある(「バルセロナ」所収)。その途中から。

 一九四五年夏/ きみは 疎開先のN町の/ S医院の 母屋の庭で(母屋というものがあった)/ S氏や 看護婦さんたちと/ ラジオをとり囲んでいた。/ みんな黙りこくっていた/ 空だけが上のほうにあった/ まわりの人の顔が/ 見られなかった/ 泣くことも笑うこともできない /とはあのことである。
 突然 S医師が/ 銀行へ行って お金をおろして/ 来るようにと/ 奥さんに命じた/ そのときのS氏のことばが/ いつまでも/ 耳の底に/ 不快なものとして/ 残っていた/ だが いまは そうばかりとも思わない/ 日本の戦後は /S氏のことばのほうへと /いっさんに駆け出したのだ。
 テレビも夏も終わって/ 考えることもなく、/ 三島由紀夫のことを考える。/ 高いベランダで 三島が死んだ日の夜 /きみはニースから来た/ ひとりの婦人と会っていた/ そのいつも快活なおばあさんは/ 日本をよく知っている人である。/ 大森の 室内照明は完全なのに/ 何か暗い ホテル一室で/ はじめて見る疲れた 暗い顔を/ 彼女はしていた/ 三島の死に方/ と彼女は くらいくらい顔をした。
 生きているときは/ 三島を それほど好きではなかったのに、いま 三島のことを/ しきりに考える。/ 三島のいないいまになって。
 彼はテレビに出て/ まっ白な麻の服なんか着て/ 豪傑笑いなどしていたが、/ ほんとはテレビもきらいだったにちがいない/ テレビのあとの こんなむなしさ/ は耐えられなかった にちがいない/ その三島の気持ちは よくわかる。
どんな立派な西洋館に住んでも/ 模造西洋に すぎなかった/ 軍服さえも にせものだった/ ぜったい本物の/ 鴎外のハイカラ/ に 彼はひけ目を感じつづけたのである/ 彼は にせものの軍服を着て/ 一切のテレビに反抗して/ 自滅した。
 彼は 正月の元旦のような気分が/ 一年中 ほしかったのだろう/ あわれな男。
 テレビをきらっていては/ 生きては行けない/ (きみがじいっとがまんして/ テレビを見る練習をした一刻一刻)/ 日本中がテレビを囲んで 放心している。
 詩は テレビに耐えて/ 必死になって 存在しようとしている。// 日本には ついに/ 思想らしい思想は 生まれないのか、/ と悲しみながら/ 風の日の しめ切った あつい/ 電車に乗っている。/ きみは悲劇的な/ 死者たちばかりを愛している。

 確かに《日本中がテレビを囲んで 放心している》ように思える。あるいは、テレビとネットを囲んで放心しているのかもしれないが・・・。
《日本には ついに 思想らしい思想は 生まれないのか》
 テレビにでているコメンテイターが日本の思想家ということになっているのだろうか?
 あるいは本の表紙で胸の前で腕を組んでふんぞり返って偉そうにしているあの人この人が日本の思想家なのだろうか?
 現在73歳のわたくしはそのほとんどをテレビとともに生きてきたことになる。
 とはいっても、34歳で書いた学位論文は原稿用紙に手書きである。まだ日本語ワープロがなかった。
日本におけるインターネット開始は1984年ごろらしい。36年前、であれば、ちょうどわたくしの人生の真ん中あたりということになる。
 わたくしがこのようなブログをはじめたのは野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされて(?)である。この本が2001年(約20年前)。自分のホームページを作ってもおそらく誰もみてはくれないが、自分は見ることができる。自分に必要な資料をネット空間においておけると野口氏はいっていた。確かにそうで、勤務先で自宅にある資料を(ホームページにまとめておけば)いつでも参観できるというのはとても便利であった。野口氏がそのようにいっていたのは、インターネットの黎明期には検索エンジンの機能がプーアであったことが大きい。
 しかし2006年には梅田望夫氏の「ウエブ進化論」がでて、氏の本で「ロングテール」という言葉を知った。検索エンジンがわずか5年ほどで大幅に進歩したということなのであろう。検索エンジンが進歩すれば、今までであれば永久に埋もれてしまっていたであろう情報が誰かに発見される可能性がでてくる。もしもその情報がネット空間に発信さえされていれば・・。
しかし梅田氏は今のネット空間の現状には希望をもてなくなっているようである。
 昔、床屋談義という言葉があった。床屋さんで髪をかってもらいながら口角泡をとばして、政治の現状を大いに慨嘆したとしても、それがその時間と場所を離れたら、何の意味ももたないことを談義するひとも、それを聞かされているひともよくわかっていた。
 落語の「寝床」みたいなもので、下手な義太夫をきかされる人の数は多寡が知れていた。それが今では、下手な義太夫も全世界に発信できる時代になってきているわけである。
 テレビだって黎明期にはプロの世界だったのではないかという気がする。それが今ではプロとアマチュアの区別がどんどんとなくなってきている。あるいは受ければプロ。受けなければアマチュア
 またまた見ていないで書くのは恐縮だけれども、「半沢直樹」には歌舞伎の役者さん達がたくさん出演しているらしい。かれらは本来はプロ中のプロであるはずなのだが、テレビに出ると単に大袈裟とか誇張とかいった方面だけが面白がられるということになるのかもしれない。それならいっそのこと隈取もつけたらというのは冗談だけれども、むしろそこまでいくとテレビの現状というのがもっとはっきりと見えてくるような気がしないでもない。
 テレビの司会者やコメンテイターも隈取でもしたほうが、それが果たしている役割がもっと見えてきて、視聴するひとももっと距離がとりやすくなるかもしれない。

パイプのけむり選集 旅 (小学館文庫)

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