許光俊 「世界最高のクラシック」「生きていくためのクラシック 「世界最高のクラシック」第Ⅱ章」

  [光文社新書 2002年10月20日初版]
  [光文社新書 2003年10月20日初版]
    
 
 「オレのクラシック」が面白かったので読んでみた。
 なんで著者がクラシック音楽を聴くのかというと、「生きているのが退屈で、つまらない」からなのだそうである。「そのつまらない生を、たとえ束の間であれ、生きるに値すると思わせてくれるもの」、それはたとえばご馳走であったり、ワインだったり、釣りであったり、車であったりするのであるが、その一つとしてクラシック音楽があるのだという。ご馳走もワインも釣りも車も、そのどこにも人間がでてこない。一人で食べるご馳走なんて旨いものではないし、ワインを一人でのむなんて馬鹿みたいである。釣りは一人でするものなのかもしれないし、車も一人で運転するのかもしれないが、なんだか氏のあげる楽しみには人間の匂いがしないのが気になる。フロベールだとかリラダンがとかを思い出す。「生活なんかどうでもよくて作品がすべて」とか、「生活なんて召使にやらせておけ」とか。
 この両著ともに演奏家論である。作曲家論ではない。ヨーロッパ19世紀に隆盛をむかえたクラシック音楽に対して演奏家がどういう視点をもっているかを論じている。許氏はオーケストラ作品こそが西欧クラシック音楽の核であるとしているので、論じれられる演奏家とは指揮者である。指揮者を演奏家といっていいのかどうかは問題であるが。
 「世界最高・・・」にそってみていく。
 まず「ナイーブ時代の大指揮者たち」。フルトヴェングラートスカニーニワルターなど。クラシック音楽の価値、あるいは西欧の価値を心底素直に信じられた幸福な指揮者たち。ここでも言及されているが、丸山真男フルトヴェングラーの熱烈な信者であった。そのことは丸山真男がその根底において西欧の価値を疑うことのなかった人であることを示している。一時期「進歩的文化人」といわれた人たちも基本的に西欧信者であった。社会党社民党路線の凋落というのは、ヨーロッパの価値が素直には信じられなくなってきていることを反映しているのであろう。ヨーロッパの価値が信じられなくなってくれば、社会党社民党路線が凋落するばかりでなく、クラシック音楽もまた凋落する。その凋落の過程にあるクラシック音楽に、それではそれ以降の指揮者たちはどういうスタンスで臨んでいるのか?
 で、次にくるのが、「現代にあってもなお幸福な指揮者たち」。ベームザンデルリンククライバーなど。著者によればいまなお多くの音楽家はここに分類されるのだそうである。許氏はアドルノの「アルシュビッツのあとで詩を書くのは野蛮だ」までも引き合いにだして、これら演奏家に嫌味をいう。しかし彼らは「ナイーブ時代の大指揮者たち」がもっていたような理想主義をもつことが最早できないとも許氏はいう。
 その次が、「普遍化を目指した指揮者たち」。セル、カラヤン、ヴァント、ブーレーズなど。西欧ローカルな音楽からグローバルスタンダードとしてのクラシックを目指した指揮者たちであるとされる。
 その次が、「エキゾチックは指揮者たち」。バーンスタイン小澤征爾、ミュンフンら。ヨーロッパ人以外の指揮者たち。「普遍化を目指した指揮者たち」がヨーロッパからグローバルを志向したのに対して、はじめから西欧の外にいる音楽家たち。許氏によれば彼らは文化的植民地主義をひきずっていて最早古臭い。いわば名誉白人指向であるから。
 最後が「懐疑に沈む指揮者たち」。本書で一番力点が注がれている部分であり、著者が共感を隠さない指揮者たちである。芸術が自明でない時代において、自分ひとりで自分の表現を構築していかなければいけない不幸な時代の音楽家たちである。クレンペラーチェリビダッケ、ケーゲル、インバル、アーノンクールら。著者によれば現在においてベートーベンの偉大などというのを幸福に信じられるのはおめでたいのであるから、現在においてまともな音楽家は引き裂かれた不幸な存在でなければおかしいのである。
 こういう不幸好きとか、狂気好き、孤高好き、不良好きとかが許氏の著書をどこか胡散臭いものにしていることは確かであるが、何の疑問もなく「クラシックっていいですねえ」とか、根拠もなく「第九の演奏は誰々でなくては!」などといっている人よりはよほどましである。
 
 クラシック音楽の市場はどんどんと縮小しているらしい。オペラなどの手間隙がかかるものを録音するようなこともできなくなっているらしいし、指揮者にも新しい(少なくともカラヤンバーンスタイン級の)スターがなかなか出てこないので物故した指揮者のライブ音源などを探してきてCD化するようなことでお茶を濁しているらしい。とすれば、いずれ文化財保護の対象になっていくのであろうか? 
 クラシック音楽はもともと日本のものではないのだからクラシックがもっと衰退すれば日本では保護する義務もなく、われわれの周りからは消えてしまうのかもしれない。これに関してはヨーロッパ文明が今後どの程度生き残れるかということに依存するのであろう。とにかくも日本は明治において西洋を受け入れたのだから、ヨーロッパ文明がそこそこに残っていくのであれば、日本でも最低限のものは残っていくのかもしれない。いまの歌舞伎のようなものになるのだろうか? 
 現代の人間で歌舞伎を鑑賞することが生きていく上で不可欠という人はどのくらいいるのだろう(歌舞伎評論家を除く)。江戸時代の生活感情と歌舞伎は結びついていたはずであるが、現在人ではそういうひとはほとんどいないであろう。歌舞伎を後継したのがチャンバラ映画であるというのが橋本治説であるが、チャンバラ映画は現在のテレビ時代劇につながっているのであろうか? あるいは「韓流」などというテレビドラマが、意外なことにそれと繋がっているのであろうか?
 ところで許氏は「生きていくため」にクラシック音楽が必要であるという。文学がなくては生きていけないという人もいるのだから、そういう人がいてもおかしくはないが、文学は現在においてもまだ新たに作られ続けている。しかし現在において演奏されるクラシックのほとんどは過去に作られたものであり、それの演奏がわれわれにとって必要な演奏であるかということが問われている。それが、音楽の文学と異なる点である。では、演奏によってそれほどまでに音楽が違ってくるものなのだろうか?
 わたくしはここ20年くらいあまりまともにクラシック音楽をきいてこなかったので、許氏があげている指揮者でCDででも聴いたことがあったのはフルトヴェングラートスカニーニワルターベームクライバーカラヤンバーンスタイン小澤征爾、インバルくらいであった。そこで何人かの指揮者の演奏を新たにきいてみた。
 ザンデルリンクブラームス交響曲全集(Capriccio 08-10 600-603)  第一交響曲がよかった。この曲はどこか裃をつけたようなぎこちなさがあるが、自然体というか無理をしていないというか、とても柄の大きな演奏であった。ほかの交響曲もみな悠然とした演奏で素敵。どこかよそいきな小澤征爾−斉藤記念などとは大違いである。
        :引退演奏会(harmonia media 2905255-59) ブラームスの「ハイドンのテーマによる変奏曲」も凄い演奏だが、シューマンの第四交響曲がよかった。シューマン交響曲はどうも何かピンとこないと思っていたのだが、はじめて納得できる演奏をきいた気がした。
 ヴァント:ベートーベンとシューベルト交響曲を数曲きいたが、いま一つ著者がいう凄さがわからなかった。ブルックナーのほうがいいのだろうか?
 ケーゲル:ビゼーアルルの女組曲」(Berlin classics 0094772BC) 「アルルの女」なんてイージーリスニングと思っていたのだが、これがとんでもない演奏で、指揮者によってはこんなに凄い演奏になるのだということを知った。この指揮者は70歳でピストル自殺をしたらしい。この演奏も晩年のものらしい。何か粛然とする音楽となっている。そういう人の演奏を好むらしいのが許氏の困ったところであるのだが。
 チェリビダッケ:(EMI classics TOCE-55661-74)この人は演奏会こそが音楽の場であるとしてスタジオ録音を拒否していた人であるので、放送のための演奏会のライブ録音が死後少しずつCD化されてきているらしい。その第4集というのがこのCD14枚のセットである。一応宗教曲中心ということになっているが、内容はあまり統一がない。しかしとにかく凄い。フォーレとモツアルトのレクイエム、ともに暗い、というか寒々としている。フォーレなど旧来の《穏やかなレクイエム》というイメージを根底から覆すものとなっている。モツアルトも同様。とにかく曲が終わったあと人に何か苦い澱のようなものを残す演奏である。と思うとショスタコーヴィッチの第一・第九交響曲などは作曲家のもつ皮肉な面・嘲笑的な面と一転して深刻(そう?)な面を見事に示している。ショスタコーヴィッチというのはこういう作曲家であったのであろうなと思わせる演奏である。ブルックナーなどよりも、この指揮者には合っているのではないだろうか?(ブルックナーの第三ミサの演奏はいくらなんでも遅すぎである) かと思うと「シェーラザード」のような曲をとんでもなく深い曲として演奏する。一方ではスメタナの「モルダウ」とかシュトラウスの「こうもり」序曲なんていうのを、まことに柄の大きい曲として描く。とにかく芸域の広いひとである。指揮者としてのオーケストラを統制する卓抜な技術をもつと同時に、自己の目指す明確な音楽への信念を貫いたひとなのであろう。解説をみると「禅」に関心があったりサイババを信じたりとかなり危ないひとでもあるようである。もう、こういうわがままな人が指揮者として勤まる時代は終わったのだろうなという気がする。
 アーノンクール:モツアルト「交響曲第40番・41番」(Warner WPCS-21007) なんだかわざと汚く演奏してやるぜ!、というような演奏。グールドの弾くモツアルトのピアノソナタも相当偶像破壊的であるが、これもなかなかである。しかし、少なくとも聴いていて眠くならない演奏である。つぎつぎと刺激的なところがでてくる。綺麗綺麗なモツアルトなどいまさら演奏して何になるのだ?ということはあるから、こういう方向はありえるのだとは思うが、少なくとも最初からこういう演奏をされていたらこの曲は残ってこなかっただろうなという気がする。現在においてクラシックを演奏する意味を問いかける演奏ではある。
 少なくとも、ザンデルリンク、ケーゲル、チェリビダッケの3人の指揮者を知ることになっただけでも許氏の本を読んだ意味があった(アーノンクールも面白かったが、これはアンチの面白さであって、ポジティブな方向での意義がどのくらいある人であるのかはやや疑問であるように思った。ヴァントについてはもう少し判断保留である)。やはり音楽は本で読んで考えるものではなくて、耳で聴いて考えるものであることは間違いない。どうもわたくしが最近きいていた演奏はカラヤン的なというか、流れるような立ち止まらない深刻にならない傾向のものが多かったようである。しばらく前に小澤征爾の「マタイ受難曲」をきいてリヒターの演奏と比較してなんと思い入れのないあっさりした演奏なのだろうと不思議に思った記憶がある。ここで許氏がとりえあげてといる演奏の多くはどこかにひっかりのある、人を思考に誘うものである。カラヤンの演奏などは感覚に快感をあたえる演奏の典型である。それが時流にあっているのであろう。だから許氏がとりあがる演奏家たちは時流に反した少数派である。クラシック音楽がもともと少数派であるところに、その中でもさらに少数派であるから、ほとんど絶滅種なのであろう。
 しかし、ダ・ヴィンチルノワールピカソの絵がこれからも残るように、クラシックの演奏もCDなどの形では残っていくわけである。将来クラシック音楽がさらに衰退しライブの演奏会が行われなくなっても、これらの演奏記録だけは残るわけである。今から100年先にも、バッハやモツアルトやベートーベンはまだ演奏されているのだろうか? もはやそういうものは演奏されなくなり、一部の物好きたちが、細々とCD(そのころには別のメディアになっているかもしれないが)を聴いているだけになっているであろうか?
 最近、少し集中してクラシック音楽を聴いていて、あらためて自分の趣味が許氏に近いことを確認した。またしても少数派である。つねに辺境の人というのも困ったことである。
 わたくしは30歳ごろ吉田健一の時間論に接して以来、ここで許氏がいっているような日常の弛緩した時間とそれを切断する緊張した時間という構図は間違いである、大切なのは日常の時間が当たり前に流れることであるということを自分の信条としてきたはずなのであるが、なんだか身についていないのかなあという気がする。
 実は吉田氏自身が本当にそう信じていたのかというのが根本的な疑問であって、晩年の氏があれだけたくさんの著書を書き続けたのも、自分がいっていることがあまりにも変なことなので、つねに言い続けていないと自分でも納得できないということがあったのではないかとひそかにうたがっている。吉田氏はヴァレリー的な近代(あるいはラフォルグ的な近代)から出発して近代の頽廃の克服ということを一生の課題とした人であったと思うが、本当に克服できたのか、あったのは克服せねばならないという強い意志だけではなかったのか、という疑問はきえない。ただ吉田氏は弱音を吐くことのない、意思の人であった。わたくしにまったく欠けているのが、その強い意志であることは間違いないのであるが。
 いずれにしてもクラシック音楽というものを最近、再認識してきている。これはこれからどんどん衰退していく分野であることは間違いないから、それが消えてしまわないうちに、今のうちからせっせとCDなどを購入しておこうかと思う。老後の楽しみである。まあ老後などというものがあればの話であるが。
 
(なおオーディオ環境は以下:
 CDプレーヤー デノン DCD-755Ⅱ
 アンプ VICTOR AX-Z911 1987年製 父親の残したもの
 スピーカー BOSE 125)
 
(2006年4月4日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

世界最高のクラシック (光文社新書)

世界最高のクラシック (光文社新書)

生きていくためのクラシック (光文社新書)

生きていくためのクラシック (光文社新書)