山田風太郎 「警視庁草紙」

 [ちくま文庫 1997年5月初版 原著1975年初版]


 「日記」を読んでいて、読み返してみたくなった。実は「警視庁草紙」は読了した気でいたのだが、前巻の半分くらいまでしか読んでいなかった。読みきり短編の連作であるから、それでもいいのかもしれないが、連作という性格、最後の大団円?からいって、やはり最後まで読まねば、読んだことにならないであろう。
 ということで、はじめて読了した。ちょっと前に山田風太郎モームに似ているなどと書いたけれどもやはり違うようである。モームほどは人の世をバカにしていない。暗い正義感とでもいうような背骨がある。モームに較べればずっと子供っぽいところを残している。だからこそ「室町少年倶楽部」のような傑作が書けるのであろう。
 この作は明治6〜10年頃をあつかっている。書かれていることは、この頃の明治がいかに江戸と地続きであるかということで、江戸幕府がまだ生きているのである。後知恵で歴史を知っているから、われわれは明治を江戸と切断されたものとして見てしまうけれども、この頃に生きていた人の感覚からいえば、明治政府ではなくて薩摩政権とでもいうような感覚だったのかもしれない。外様大名が政権についたとでもいうような。もしも江戸幕府が倒れずに西洋の文物を取り入れることをはじめていたら、その後の日本はどうなっていたのであろうか? 清のような運命をたどっていたのであろうか? 
 この作の背景になっているのは、たとえ政権が徳川から薩摩に移ったとしても、膨大な官僚機構警察機構を維持するためには旧江戸幕府配下の人間を多数使わざるを得ないことからくる悲喜劇である。作者は明らかに判官贔屓であって、新しい政権に頭を下げることをしないへそ曲がりや反骨の人間に肩入れしている。これはいうまでもなく、作者の戦前戦中戦後の経験を反映しているのであろう。戦争を遂行するための官僚機構を支えていた人間の多くが戦後もまた日本復興のための官僚となったはずである。これと同じことはヴィシー政権下のフランスから戦後フランスへ、あるいはナチスドイツから戦後ドイツへという過程でも間違いなくあったはずである。第一、打ちてし止まん、一億一心火の玉だ!と新聞に書いていた同じ人間が、民主主義万歳!と書くようになるのである。人間なんか信用できないということは山田青年の骨身にしみたはずで、それでも節を曲げなかったごく少数の人間への賞賛がこれを書かせたのであろう。
 橋本治は、「ひろい世界のかたすみで」の中での「不戦青年からむにゃむにゃ老人へ」という山田風太郎を論じた文章で、「諦念でも達観でもなく、「私は既に死んでいるのだが、しかしそうであっても、許すべからざるものは許さない」という形で正義を貫」いた人であると、山田風太郎を評している。これはもちろん、「警視庁草紙」や「幻燈辻馬車」の登場人物と重なるのであり、「卑劣であることを敢然と拒否して、壮絶なる敗退に突入していく」というのが橋本治のこれら主人公の評である。とすると東映やくざ映画の主人公のようでもある。「とめてくれるなおっかさん背中の銀杏が泣いている男東大どこへゆく」である。ではなぜ、山田風太郎の明治物の主人公たちが美しいのに、全共闘運動家が美しく感じられないのか?である。それは明治物の主人公たちが、何がいけないかだけはわかっていても、何がいいのかについては何も言わないからである。言えないからである。何がいいのかについて言ったとたんに相手と同じ地平においてしまうからである。相対の場に入ってしまうからである。卑劣を本当に批判できるのは、彼岸の人、すでに死んだ人だけなのである。欲をもっている人間が他人を批判すると醜くなる。欲をもたない人だけが本当の批判をできる。欲をもたない人の目にに見えるのは、美醜だけであって善悪ではないからである。
 モームは最後まで相対の中にとどまった人であると思う。人間の営みなどしょせん愚かしいもの、ということである。山田風太郎は、人間の営みは確かに愚かしいものではあるが、それでも醜いものは醜いとする。その絶対の視線を支えるのが死者の目なのである。
 「不戦青年からむにゃむにゃ老人へ」が大変腑に落ちる論であったので、ここに記したことの過半は、その受け売りに過ぎない。
 ただ、橋本治全共闘無戦派なのだそうであるが、氏と大学闘争との距離がどのようなものであったのかはよく見えないところがある。


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)