水滸伝を、というよりも梁山泊という言葉を初めて知ったのは筒井康隆の「俗物図鑑」でではなかったかと思う。週刊誌の連載(週刊新潮?)で、ときどき読んでいただけのうろ覚えであるが、全国から集まった奇人変人たちが梁山泊という会社(だったろうか?)に集まって、権力と闘うが敗れてしまうというような話ではなかったかと思う。
 安田講堂梁山泊だったのだ、などというと怒る人がたくさんでてくるにきまっているが、そのころの運動に美点があるとすれば計画性のなさ、将来展望のなさ、ただ破壊あるのみという非政治性という点にあったと思う。
 ところが、北方水滸伝の悪党たちは、緻密な計画に基づく政治行動をして、本気で権力を奪取にいくのである。経済活動をし経済基盤を確保し、権力側の秘密警察に対抗する裏秘密警察まで作り上げてしまう。まるで「民青」。そんなことをすれば手を汚さざるをえなくなる。
 では、志をもった心のきれいな人間が政治に関与していくことによって汚れていく過程を描く小説であるかというと全然そうではない。手を汚しなからも心はきれいなのである。
 そんなうまい話があるか、ということになるわけで、そこに作者の苦心があるのだと思われるが、はたしてそれが成功しているのかについては、読者の判断に委ねるしかない。個人的見解としては、そういうことを目指すのであれば、もっとお伽噺にしなくは、つらいと思う。北原氏の本来の仕事であるハード・ボイルドというのは、そういう大人のお伽話であると思うのだが。