そろそろ書くことがなくなってきたなあ、と思っていたら、今日の朝日新聞朝刊の「読書」欄に池上冬樹氏の北方水滸伝についてのかなり長文の批評がでていた。これでまた書くことができた。天は我を見捨てず(などと馬鹿なことを言ってるね)。
 池上氏は、「愉しい、面白い、わくわくする」といい、「全19巻を二週間で読んだ」という。こちらは9日目で3巻で停滞中である。なんだか、わくわくしなくなってきている。
 池上氏はこれを革命小説である、という。学生運動に参加した全共闘世代の思い入れを示す現代の小説である、という。ここまではこちらの見立てと同じである。この批評によれば、北方氏はどこかの対談で、「キューバ革命がもっていた変革へのロマンチシズムを『水滸伝』に移し変えた」といっているそうである。梁山泊キューバ島で、宋王朝が米国なのだと。そこまでは気がつかなかった。
 それで問題になるのが変革へのロマンチシズム、変革への志である。それをもたない人間は、どうもこの小説では軽蔑の対象をされているように見える点である。村上龍さんが描くところのキューバの人びとというのは、未来志向の革命家ではなく、鼓腹撃壌の民のように見えるのだが。
 この小説の最大の欠点は、梁山泊に集う英雄たちが「民の国をつくるのだ!」というにもかかわらず、その「民」の像がえらく薄っぺらなところというか、「民」のことなぞどこにも書かれていないように見えるという点である。「民」はただひたすら貧しく苦しく虐げられ収奪されているというだけの存在なのである。
 この時代に文字を読める人間がどのくらいいたかはわからないが、目に一丁字なきものは相手にもされていない感じなのである。どうも「民」というのがインテリの頭の中にだけ存在する観念である嫌疑が濃厚なのである。