吉田健一 (幾野宏訳) 「まろやかな日本」

  [新潮社 1978年初版]

  • Kenichi Yoshida 「 Japan is a circle 」 [ Kodancha International Itd. First published in 1975 by Paul Norbury Publications, Tenterden, England ]


 昨年暮、谷沢永一氏の「紙つぶて 自作自注最終版」を読んでいて同じ書評集ということで丸谷才一木村尚三郎山崎正和三氏による「鼎談書評」(文藝春秋社 1979年)を思い出し、拾い読みをしていたら、この幾野宏訳の「まろやかな日本」がとりあげられていた。実はこの本は買っただけで読んでいなかった。その元本である「 Japan is a circle 」も吉田健一の英文が素晴らしいというようなことをどこかできいて買ったのだが、ほとんど読んでいなかった(どこで買ったのかも覚えていない。どこかの飛行場だっただろうか?)。それで年末からぼちぼちと読んでみた。
 この「まろかやな日本」について覚えているのは、吉田健一の奥さんが「健一は《まろやか》なんて言葉は決して使いません」というようなことをいっていたというようなことである。翻訳してそんなことを言われるなんて幾野氏も可哀想にというものである。健一奥さんがそのようにいうのであるから、本書を吉田健一の本としてあつかっていいのかどうか微妙なところがある。もともと吉田健一の日本語はわかりにくいところをもってきて翻訳である。ということで、なんとなく通りが悪い表現については、原文にもあたってみた。
 西欧ジャーナリズムから依頼されて書いた原稿であるから、酒や芸者について論じた文もあるが(実は本書で一番面白いのはこれら酒についての文であると思う)、「鼎談書評」でとりあげられていたのは、「まろやかな世界」という論である。原著では「 Circles 」。そもそも原題の「 Japan is a circle 」だって、どう訳したらいいかというようなものである。「サークル国家日本」「日本仲良しクラブ」「全体こそ日本」「日本は丸」・・・まるでどうしようもない。
 それでこの論は「 Circles 」である。複数。これは外からみると日本人は一致団結しているように見える、日本人はいつもお互い同士寄り集まっているということを論じたものである。どうもこれは仲間内、身内というような意味の Circles であって、まろやかというようなこととは関係がないように思う。
 一致団結しているように外からはみえるかもしれないが、でも日本には「足を引っ張る」という言い方がある。これは一致団結などしていない証ではないか?というように論は進む。健一氏が不思議がるのは、この「足を引っ張る」がなんら批判的なふくみをもたない表現であるという点にある。そういうことは恥ずかしいこと醜いものという含意がなく、いやしくも人間であるなら、仲間の誰かが出世しそうになったら当然それを邪魔しますよね、という当たり前のこととしていわれているという点にある。
 それでも、日本が団結してみえるのは、日本人の何事にも完璧を求めねばやまない性格によるのではないかというのが吉田氏の主張である。日本が完璧を求めてやまない最大の領域は人間関係においてであるという。他人とうまくやっていきたいと思い、その中で自分も生かしたいと思うならば、これほど努力しがいのある分野もない。そこで日本人は礼儀と品格というものを通して自分が自分であること、優雅に人間らしくあることを追求してきた。そこにおいて相互に抱く関心のゆえに、外からはかたまっているように見えてしまうのである。外国で日本人同士がかたまっているのは、語学が苦手なためにではない。自分たちと同じ程度に洗練された人間が日本人以外にいるなんてことを想像もできないからなのである。ワイルドが自分についていったのと同じように、日本人は芸術にではなく、生活に天賦の才能を注ぎ込む。芸術と生活を無理にわけて考えるのはヨーロッパ19世紀の悪しき習慣である。日本人はそれに毒されていないのである。
 という風に読んでくると、吉田健一は日本人の洗練を喜んでいるように思えるのだけれど、一方で「足を引っ張る」ことが理解できない人、それに嫌悪を感じる人なのである。洗練されていることは好きなのだが、人がかたまって集団として存在していることは嫌いなのである。そして日本にはおいては洗練は集団でいることからしかでてこないとしたら、健一氏は困ってしまうのである。「鼎談書評」で木村尚三郎氏がいっているように、吉田氏のいっていることは字面だけみれば矛盾している。それにもかかわらず、なんとなくわかる。吉田氏の日本観は愛憎半ばしている。吉田氏はヨーロッパを徹底的に学んで優雅ということを知った。そして何のことはない、ふりかえって見れば日本には優雅がすでにあったのである。しかし、西欧では自立した個人がその交わりの中から優雅を育んだのであるが、日本では集団の中から優雅が生まれたのであり、その中での個人は、下からは足を引っ張られ、上からは杭を打たれるのである。
 「鼎談」で丸谷氏がいっているように、現代日本の村落的性格に対する、ほとんど先天的な理解の欠如が、吉田氏を一種の奇跡的な存在たらしめた、ということなのであろう。要するにお育ちがいい、ということである。ところで「鼎談」の別のところで、丸谷氏は吉田健一三島由紀夫評として「三島由紀夫は一つだけたいへんな思い違いをしていた。それは日本に上流階級があると思っていたこと」と言ったというのを伝えている。本来は優雅は上流階級に発するのであり、それを大衆がまねるというスノビズムにより健全に伝播していくはずのものであるが、日本では優雅は大衆の中で野蛮と同居して存在している。(ところで本文中に「まろやか」というのが3回でてくる。原文ではすべて roundness である。これもどうも「完璧」という意味のように思える。Circle と roundness で「まろやか」という訳語が導かれたのだと思うけれども、どうも勇み足のような気がする。奥さんもいう通り、健一氏は「まろやか」というような微温的な語は使わない人だったように思う。)
 「ユーモア」という章がある。原題は「 Humour and the Japanese 」。ここで吉田氏は「民族は消滅するか、成熟するかのどちらかしかない」という。そして「成熟とはものごとをありのままに見るようになること以外の何ものでもないと、人間は幻滅を通じて学び知る」という。ここのところ、「われわれは幻滅を通してさえ何事かを学びうるのであって、ものごとというのはただその通りのものであるということだけがわれわれの知りえるすべてなのである」とでもしたい。この諦念が優雅ということなのである。日本のユーモアとはこの諦念と深くかかわると氏はいうのである(そうとははっきり書いてはいないがそうとしか読めない)。そしてそれを示すものとして「咄」ということをいう。原文では mere story-telling であり、江戸時代の滑稽本などを指しているのかもしれないが、これは玄人の芸人が語るのを聞かないと本当の面白みはわからないとされているから「落語」のことを言っているのだと思う。この落語をみれば日本人の繊細さがよくわかるという。落語こそが優雅なのである、というような野暮ないいかたはしていないが。
 落語の世界では「足を引っ張ったり」「杭を打ったり」はない。そもそもそこには、出世していくやつなどはいないのだけれども。われわれが「足を引っ張ったり」「杭を打ったり」するのは、そうして全員の身長を均一にしておかないと、和が乱れ、優雅な世界が保てなくなるからなのであろうか?
 「酒」についての楽しい数編があるが、吉田氏が日本語で書いた無数のといいたいくらいの酒をめぐる文章があるのだから、われわれとしてはそれを味読すればいい。日本語を読めるものの特権である。
 最後にもう一つ「皇軍全学連」という章。原題が「 Japan in the limelight 」。どうも安保闘争で岸内閣が瓦解した直後に書かれた文章のようである。吉田氏はこの事件からすぐに2・26事件を連想したという。氏は2・26事件によって日本で「皇軍」というものに終止符が打たれ、軍隊は普通の軍隊に戻ったという。そしてそれと同じように安保闘争(あるいはその失敗)によって知識人にかんする伝説が粉砕されたという。知識人の正気の沙汰とも思えない世迷い言と彼らが支持する社会党というこれ以上馬鹿げた政党はありえないと思えるような政党の底が割れたという。今になって考えれば、安保闘争進歩的文化人と呼ばれたような人々の凋落の決定的な里程標となったことは間違いないが、岸内閣総辞職の時点でそれを明確に言っているのは慧眼であると思った。


(2006年3月29日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)