D&A・プレマック「心の発生と進化 チンパンジー、赤ちゃん、ヒト」(1)

  [新曜社 2005年5月25日初版]


 昨日買ってきたid:jmiyaza:20060320この本を少し読んでいるところである。プレマックはサラというチンパンジーにプラスチック片を用いて会話が成立することを示したので有名なひとである(喉頭の構造からチンパンジーは言語を可能にする音を発することができないので、実験のためには、なんらか音声以外のコミュニケーション手段を発明しなくてはならない)。
 本書はもちろんチンパンジーのことも書いてあるが、赤ちゃんについての考察が多い。まだ80ページくらいなのだが、あまりに驚天動地なことが書いてあったので書いてみる(あくまでわたくしにとってであり、そんなことに今頃驚くほうが驚きなのかもしれないが)。
 われわれの脳には数のモジュールが備わっているというのである。従来、数は言語の一部であると考えられてきたけれども、言語のモジュールと独立して数のモジュールがあるというのである。
 プレマックによれば、「モジュールというのは、ヒトの知識の基本となるすべての領域で乳幼児の学習をガイドする、生得的な装置」なのだそうである。生得的というのが問題で、それが迅速で正確であるのは、考えたり、比較したりしての結果としてそうなるのではなく、いわば反射的にそうなるのであるから、だそうである。
 さらに驚くことには、ラットやハトも数量の比較ができるのだという。さらにはミツバチなどの無脊椎動物にもその機能はあるらしい。
 脳の中には、いわば数直線のようなものがあるらしい。1、2、3というような数字はその上にマッピングされることにより大小の比較が可能になるということらしい。
 この装置は連続的つまりアナログであり、離散的つまりデジタルではないらしい。
 もし離散的ではないとしたら、自然数概念のようなものは生得的とはいえないのかもしれないが、わたくしは自然数というようなものは、自然界に存在するのではなく、人間の脳の発明であるとばかり思い込んでいたので、この本で数のモジュールということを読んで、びっくり仰天したわけである。
 なぜ、わたくしがそのように思い込んでいたのかを考えみると、どうやらそれは丸山圭三郎氏の「文化記号学の可能性」の影響なのではないかと思い至った(この本を今本棚で探したのだが見つからなかった。1980年ごろの本ではないかと思う)。この本はソシュール言語学を日本に紹介するのに大いに貢献した本で、言語の恣意性ということを強く主張した本である。たとえば虹というのは連続スペクトルであるが、それをヒトは7色にみたり4色にみたりする。あるいは雨の降り方をどう言い表すかということについては、われわれは大した語彙をもたないが、ある民族は10種類あるいは20種類の雨の降り方を区別している。要するに、世界は連続しているのであるが、それをわれわれは恣意的に分けてみるのであって、その区切り方にはなんら必然的なものはないというのである。それを丸山氏は「世界を言葉によって分節する」「言わける」というようないいかたをしていたように思う。
 その世界の中に、一個、二個あるいは一匹、二匹というような区切りを引くのもまったく任意であるから、自然数というようなものは人間の脳の産物、認識の産物であると思っていたのである。われわれは人工的にものをつくるようになったから、世界のほうに一個、二個という単位があるように思えるが、それはわれわれのように人工的なものにあふれた世界に生きているものの偏見なのであると思っていた。
 脳の中の数直線がアナログ的なものであるとすれば、かならずしも自然数概念のようなものまで生得的とはいえないのだろうが、それでも数というものが生得的なものであるということは衝撃的であった。
 今から思うと、ソシュールの考えはポストモダンと通じるものであるのだと思うが(事実、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」ではソシュール構造主義の始祖とされている)、ポストモダニズムはそれと対立する思想によってではなく、まったく別個に存在している脳研究により、その足元を崩されていくのではないかということを感じた。
 丸山さんの「文化記号学の可能性」はむかし随分と傾倒して読んだ本である。自分の中にはそういうものに傾倒するポストモダニズム的なものへの親近感と、ポパーに傾倒するアンチ・ポストモダニズム(もっともモダン派からいえば、ポパーの属する科学哲学などというものをやっている連中はすべてポストモダンである、ということになってしまうのかもしれないが)的なものへの親近との両者があり、それらの間を今だにふらふらしているという気がする。
 それで吉田健一ポストモダンなのだろうか、という疑問が生じる。どうなのだろう? 丹生谷貴志氏のようなポストモダン派の吉田健一論が一番身に沁みるということからみて、少なくとも吉田健一ポストモダン的に読んでみたいという志向があることは間違いない。吉田健一は反=観念論の極北であるというのがわたくしの見立てなのだが、ポストモダンは観念論の系譜にあるのか。反=観念論の系譜にあるのか? それが問題なのであろう。

心の発生と進化―チンパンジー、赤ちゃん、ヒト

心の発生と進化―チンパンジー、赤ちゃん、ヒト