N・ハンフリー「喪失と獲得 進化心理学から見た心と体」(6)


 第15章「子供に何を語ればいいのか?」
 この本の中で一番問題の章である。この章でいわれていることは次のようなことである。
 親が子供に宗教教育をすることを法律で禁ずるべきである。親が子供を虐待することが法律で禁じられているのに、なぜ親が子供に宗教教育をすることが許可されるのか? そしてさらに過激には、それにかわって科学的思考を公教育すべきである、というのである。
 もちろん、ハンフリーはそれに対するありうべき反論についての再反論を用意している。しかし、それら議論よりハンフリーが強調するのは、科学が特別であるということなのである。すなわち、科学はあらゆる理性的な人間が、もし機会さえ与えられれば、自分で選ぶ一連の体系を代表している、という。迷信から科学への転向はいくらでもあるが、科学から迷信への逆転向は事実上ないに等しいというのである。

 いくらなんでも上記のまとめは乱暴なのであるけれども、それでもハンフリーの議論も乱暴である。
 一番の問題は科学に対立するものが迷信なのであろうかということである。おそらく、それは美であったり価値であったりと主張する人が多いのではないだろうか?
 科学に帰依しない人は科学を知らないのである、知りさえすれば、かつそのひとが理性的でありさえすれば、かならず科学に帰依するはず、というのがハンフリーの信念なのである。だからもし科学的でない人がいれば、その人は科学を知らないか、理性的でないか、なのである。
 きわめて理性的でありながら、科学的でない人というのはいくらでもいるだろうと思う。そういう人は科学をしらないからそうなっているのであろうか?
 三島由紀夫があのような死に方をしたのは、ああいう死に方をすれば2・26の英霊に会えると信じていたからであるというのが渡部昇一氏の説である。知的な人間(三島はそうであろう)がオカルトなど信じるはずがないとみな思い込んでいるから、三島の行動が理解できない、三島はオカルトを信じていたのだ、というのが渡部説である。これまで読んだ三島の死の説明で一番説得力があるものであった。
 P・D・ジェイムズの「死の味」で殺される人間は、ある時神秘体験をしてからまったくひとが変わってしまったという設定になっていた。それまでの普通の《理性的な》生活の人から宗教の人になってしまったことになっていた。そういうことはいくらでもあるのではないかと思う。
 神秘体験というのはある種の呼吸法あるいは瞑想法を身につけることでかなり容易に経験できるものらしい。仏教の修行の一部というのは、そのためのものなのではないのだろうか? オウム真理教事件で、多くの理科系であり科学を学んだはずの人間が(医者もいたはずである。彼は科学だけでなく生物についても学んでいたはずである)参加していたことが当時問題になった。科学を学んだ人間がオカルトへ走らないとは言えないのである。おそらく麻原尊師は優秀なヨガの修行者であったのであろう。弟子にも神秘体験的なものを容易に再現させることができたのであろう。今まで、科学の世界でモノの世界で生きてきて、はじめて理屈に合わないことに出会って、世界の見方が一変したのであろう。そして、彼らにはそういう世界の方が科学の世界よりずっとリアルに思えたのであろう。
 橋本治は「宗教なんかこわくない」でオウムの林某医師は、ヨガをやることではじめて自分の肉体を発見したのではないだろうか、というようなことをいっていた。それまでは頭だけで生きてきたのである。いい歳をしてはじめて肉体を発見する。それに驚くのである。それで肉体を使うことで世界が一変することにのめりこんでいく。
 科学の理解は理性の理解、頭の理解である。身体全体での理解、腑に落ちる理解ではない。だから身体全体で受けとめる理解、腑に落ちる理解に、リアルさにおいては勝てないのである。
 ハンフリーとほぼ同じような主張を、ドーキンスが「悪魔に仕える牧師」(早川書房 2004年)でしている(「娘のための祈り」)。彼によれば世界の不幸のほとんどは幼児期の(宗教的)洗脳による、というのである。ドーキンスの主張にくらべれば、C・セーガンの「科学と悪霊を語る」(新潮社 1997年)のほうがよほどまともである。セーガンは科学をいくら学んでもそれに帰依しないひとがたくさんいることを認めているし、科学がどのような点で人びとの反感を買うか、科学がかつて科学の名前においていかに多くの誤りを犯し、現在も犯しているか、これからも犯し続けるだろう、ということを認めたうえで、それでも科学を擁護するということをしている。
 ハンフリーやドーキンスからは、「なぜ、本当のこと、正しいことが理解できないのだ! 馬鹿ものめが!」という声が聞こえてくる。科学は本当であり、事実であり、真実であるのに、それにもかかわらず、他人の生きかたの尊重などという名目で、教会のやっている愚行、悪行を手をこまねいてみていなければならないのだ! という歯軋りである。そういうのを見ていると日本に生まれて楽でいいなあ、と思う。
 むこうでの宗教の風圧というのは大変なものなのであろう。


喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体