P・ブルーム「赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源」

  ランダムハウス講談社 2006年2月8日初版


 著者はピンカーらとともに言語能力、とくに幼児の言語獲得について研究しているひとらしい。それにかんする話題も本書でもとりあげられてはいるが、翻訳のタイトルはミスリーディングであり、原題の「デカルトの子供 小児発達の研究の結果はわれわれが人間となることをどのように説明するのか」のほうが内容にづっと沿っているように思う。原題にもあるように、著者は人間が人間であるということをかなり特異なこととしてとらえているようで、それがなかなか微妙な本書の論調をつくる原因ともなっている。
 ところで《デカルトの子供》というのは、わたくしの理解が間違っていなければ、われわれは生きたものとそうでないものの区別する能力を生得のものとしてもっているということのようである。つまり、われわれは二元論的な見方は学習の結果として生じるのではなく、生来のものとしてあるのだというわけである。著者のいいかたを借りれば、「赤ちゃんは生まれながらにして二元論者なのだ」ということになる。
 生きていないもの、たとえばビリヤード球は、1)全体として動く、2)空間の中を連続して動く(消えたり、また出現したりすることはない)、3)他のものに容易には侵食されない、4)接触によりはじめて動く、という物質がみたすべき条件を充たすが、生きているものは、4)の条件を充たさない。
 赤ちゃんは、物質が突然消えることがないことは生まれつき理解しているが、物質が突然出現することがないことを理解するのはかなり後になってからである。
 赤ちゃんは、生き物が自分で動くということを理解しているだけではなく、人の顔が自分の行動に反応して動くものであることもまた知っている。
 このような理解は何も人間だけに備わっているわけではないが、たとえばチンパンジーは指差しをできない。これができるということは他人の心が読めるということなのである。人が何を見ているかを観察して、相手の興味を知るということは人間以外の動物ではほとんど見られない(他者の心を読むことにかんしてはチンパンジーよりも犬のほうが優れている) 1歳から2歳の間に赤ちゃんの他人の心を読む能力は大きく発達する。
 自閉症は現在では、他人の心を読むことの障害に起因すると考えられている。極端ないいかたをすれば、自閉症の患者にとってまわりの人たちは心をもたない物体なのである。ある学者は、すべての男は軽度の自閉症であると考えている(ちなみに自閉症患者のほとんどは男性である)。一般に女性は男性にくらべて他人の心を理解するのが得意であるし、オタクとよばれるひとは男性にずっと多い。一方、自閉症の子どもは芸術の能力に秀でていることが多く、絵画能力も普通の児よりも優れていることが多い。
 生後二日目の赤ちゃんは、男の子は機械式おもちゃに、女の子は人の顔により多くの興味を示す。この年齢の子どもが他人とどのくらい視線をあわせるかどうかは、胎児のときに分泌された男性ホルモン量によってきまるとされている。
 人までもモノとして見ようとする自閉症患者とは反対に、モノの中にまで心を見ようとするわれわれの心の動きが宗教の源になると著者はいう。そして、道徳の起源もそこにあるという。通常はわれわれに備わっている共感能力に起因する道徳感情を欠くのがサイコパス(ほとんどが男性)とよばれる人たちである。
 赤ちゃんはきわめて早い時期から模倣をはじめ、一歳のころには相当の模倣能力を示す。2歳のころには他者のことを気にかけるようになる。道徳心をもっているのである。私たちはあることが間違っているということを理屈ではなく知っている。あることはなぜ間違っているかという理由なしに、ただ間違っていることを知っているのである。
 われわれが他人の気持ちをかわるようになったことは適応的であった。しかし、他者への共感はその副産物として、必ずしも適当的ではないにもかかわらず出現してきたのである。
 カントあるいはさかのぼってはプラトンは、感情を人の精神を蝕むものとし、道徳的行動は理性によるとした。しかし、わたくしたちは感情があるせいで、目標を定めたり、事物の優先順位を決めたりできる。
 嫌悪 disgust という言葉はラテン語の「味が悪い」に由来する。嫌悪感はもともとは植物に含まれる毒物や腐った肉を避けることから出現してきた。ロジンは、自分が動物であることを意識させるものは嫌悪の対象になると考えた。
 
 著者がいうように赤ちゃんが生得的に、生あるものと、生なきものに違いがあることを知っているというのは、それらが適応的であることは明らかであるから、納得できる議論である。それを二元論であるというのはよい。そしてこの能力はまた他の動物もまた持っているものでもある。しかし、それがいつのまにか、精神と物質の間の二元論(デカルト的な二元論)をもまた生得的なものとして赤ちゃんのころからわれわれには備わっているという議論へと移行してしまうのである。その根拠になるのが、われわれヒトには、他人の心を忖度するという能力、他人の心に共感する能力が備わっているということである。そして著者はどうも人間と人間以外の動物に間に明確に線を引いて区別したいらしいのである。生物として人間を見ていくと、道徳とか宗教といったものが壊れてしまうことを(無意識に?)恐れていて、かなり強引に人が道徳的であり宗教的であることを生物学的に擁護しようとしているように見えてしまう。わたくしには、ここでの議論が説得的であるようには見えない。
 ヒトの歴史を見ると、当初はきわめて呪術的であり、それから解放されてくる過程が歴史なのではないかと思えるほどである。このあたりを説明する破天荒な説を示すのがJ・ジェインズの「神々の沈黙」(紀伊国屋書店 2005年 原著1976年)である。
 実はなんだか読んでいて馬鹿馬鹿しくなって(まったく学問的な体裁で書かれた本ではなく、自説に対して考えうる反論を検討し、それと自説を比較していくという形式を一切ふんでおらず、このように考えられるのではないかということだけを提示していくものであるので、どこかでつまづくとついていけなくなってしまう)200ページあたりで放り出してあるが、その上で書けば、今から3千年前まではわれわれは意識をもたず!、他の命令にしたがって生きていたという。その命令とは右脳からくる現代的理解での幻聴(著者のいいかたによれば神々の声)であり、その幻聴が適応的であったのは、そのようなものがないと農耕生活に必要とされるような大集団を維持することができなかったからであったという(その神々の声は、王あるいはそれに類似する指導者に従うように命令したのだという)。後のほうを読んでいないが、その幻聴を終了させたのは主として文字の発達であるということらしい。
 つまりここでは通常の説明とは順序が逆になっていて、狩猟採集生活から農耕生活への転換によって、食糧の蓄積が生まれ、そこから権力が生まれたとするのではなく、権力に従うという心性が人間に備わっていなければ、大規模な農耕生活への転換は不可能であったとするわけである。人間が文明を築けたのは、他の命令に自発的に従う心性をもてたからだということである。これは呪術的な心性の発生についてのきわめて魅力的な仮説である。
 チンパンジーもゴリラも呪術的な心?はもっていないだろうから、これはヒトの進化の過程において適応的なものとして出現したはずである。呪術的なものが、もしも言語と深く相関しているとすると、それが人間にしか観察されないのは当然ということになるけれども、考古学によってもヒトが言語を獲得したのがいつか特定できないようであるので、この議論が学問的に決着することはありえないのかもしれない(この点に関してはハンフリーの洞窟絵画と自閉症児の絵にかんする議論id:jmiyaza:20060321#1142921669がきわめて説得的である)。
 しかし、言語の歴史を推測してみた場合、最初にまず詩があらわれ、あとから散文機能がでてきたことは間違いないであろう。言葉はその当初においては、呪術的なものあるいは魔術的なものであったはずであり、説明の道具あるいは思考の道具としてでてきたのではないはずである(吉田健一「文学概論」)。現代において詩を書くということは、説明の道具、散文を書くための手段と堕してしまった言葉に当初の力を取り戻させようようと試みることなのである。
 であるから、ジェインズの論は言葉は人を支配する道具としてヒトに適応的なものとして出現したのかという問いに言い換えることができるのかもしれない。そして当初ヒトは自分で決定するということが負担であり、決定を他人に依存するという楽な道を選んだというジェインズの説明は、太古の歴史の話どころではなく、ただいま現在の日本にも通じる話であるのかもしれない。
 言葉は詩としての呪術的な力を失うのと引き換えに、われわれにものを考えるための散文機能をあたえたのかもしれない。本書の主張する他人の心を推測し忖度するこころから宗教が生まれたという説は、現在の脱色された人畜無害な宗教を念頭に置きすぎているのではないだろうか?
 ジェインズが「神々の沈黙」でいっている意識というのはほとんど自意識といいかえてもいいように思える。これは河上徹太郎が「自然人と純粋人」でいっている自然人のようなものとして、「イーリアス」時代のギリシャ人はあったというようなことではないのだろうか? そして西欧的な自意識はキリスト教の教義の永遠の責苦というような概念から生じたのではないだろうか(吉田健一「ヨオロツパの世紀末」)。
 このブルームの本でも、あるいは「神々の沈黙」でも、道徳とか宗教というものがあまりにも西欧的なものにひきつけて見られすぎているように思う。
 そういうことで著者の主張にはあまり同意できない部分が多かったのだけれども、いくつかの提示された事実は非常に興味深いものがあった。とくに、男は大なり小なり自閉症的という説(これは事実とはいえないのかしれないが)はとても興味深かった。自分の胸に手をあててみて、思い当たるところがあるなあと思った。
 若いころ、いろいろと精神分析関係の本を読んでいて、自分は分裂気質なのであると思って悩んでいた。ここでいう分裂気質とは吉行淳之介の小説の主人公のような性質とでもいえばいいのだろうか? 誰とも深くかかわりたくないし、誰からも深くはかかわられたくない。とにかく抛っておいてくれ、というような感性である。橋本治が「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」id:jmiyaza:20020204で示している三島像もまたその典型である。でも男というのは大なり小なりそういうものということであれば、少しは気が楽になるというものである。その三島は「第一の性」というふざけた本で「女は愛する性、男は愛される性」というようなことをいっていた。相手の気持ちに敏感なのは女性の方であるとすれば、当然なのかもしれない。三島によれば、男にわかっているのは愛されることの心地よさということだけで、その心地よさに舞い上がってすぐに地に足がつかなくなり、他人からはバカとして思えない非現実的な行動に走るのが男性なのだそうである。それもこれも単なる自閉症的という言葉で説明されてしまうと何だか味気ないけれども。
 ところで、この本もまた長谷川眞理子解説である。なかなかお釈迦様の手から脱出できない。


赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源

赤ちゃんはどこまで人間なのか 心の理解の起源