①はじめに


 小阪修平氏の「思想としての全共闘世代」(ちくま新書 2006年8月10日初版)を読んだ。小阪氏はわたくしと同じ1947年生まれであるが、本書の記事からすると、遅生まれのようであって、早生まれのわたくしより学年としては一年下のように思える。しかしわたくしと違って現役で大学にはいっているようなので大学には同時に入学しているのではないかと思う。
 したがって完全な同世代ではあるのだが、わたくしが東京生まれの東京育ちであるのに対して、小阪氏は九州で育って、大学生になってはじめて東京にでてきたらしい。それは案外と大きい差異であるのかもしれない。わたくしは高校時代(あるいは中学時代?)に庄司薫が「赤頭巾ちゃん・・・」でいう「おどかしっこ」の世界をある程度経験していたのに対し、小阪氏はそういう世界に大学ではじめて接したらしいからである。

 本書の内容にはわたくしには異論反論が多々あるのだが、本書は少なくとも自分の全共闘運動時代を青春の輝きとみなすような一校寮歌祭的郷愁でかかれた本ではないので、読んでいて不愉快になることはなかった。
 それで本書を材料にして全共闘問題について、これからしばらく考えていきたいと思う。というのは、わたくしは1966年に東大に入り、1968年に医学部に進学したので、同年に始まった医学部を起点とした東大闘争の渦中に完全に呑み込まれてしまうことになった人間だからである。それがなければ、今の自分とはまったく違った人間になっていただろうと思う。それに遭遇したことは自分を“鍛えて”くれたと思うけれども、全共闘運動というものに感じた違和と共感というのが何だったのかということを、それ以来ずっと考えてきている。それはいまだに自分の中でも充分な了解にはいたってはいないのだけれども、そろそろ中仕切りとして、考えをまとめて見たほうがいい時期にきているのかなというようなことを、本書を読んで感じた(というか、そもそもそういうことを感じていたので、本書を購入する気になったのであろう)。

 小阪氏は「若い世代に全共闘とは何だったのか、そして今意味があるとすればどういうことなのかを伝えたいと思っ」て本書を書いたのだと書いている。しかし若い人が本書を読んでも、「けっ!、おじさんが郷愁にひたっていい気になりやがって!」と思うだけなのではないかと思う。それは最終的に小阪氏が全共闘運動というものには何らかの意義があったと信じており、後世に伝える意味を持っている運動であったと考えているからである。そういう方向ではなく、「われわれはこういう間違いをした。きみたちは同じ間違いを繰り返すな!」という方向のほうがずっと生産的であるように思うのだが・・・。
 どうしても自分の参加した運動にも三分の理があるとしたいという歯切れの悪さが拭えないように見える。小阪氏自身は運動をきっぱりと否定するが、それでも「いやいや、あなたたちのしたことにも、こういう点ではいい点もあったのではないですか?」と他人が指摘するという構図のほうが、話はすっきりするように思う。
 まだまだ「自己否定」が不十分なのである。もっと厳しく「総括」してもらいたかったと思う、というような冗談は、今の人にはもう通じないであろう。だから小阪氏は本書を書いたのかもしれないのだけれど・・・。

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)

思想としての全共闘世代 (ちくま新書)