② 知識人

 実は、この本のタイトルの意味がわからない。「思想としての全共闘」世代なのか、思想としての「全共闘世代」なのか。いくらなんでも世代が思想であるなどということはありえないから、《全共闘運動が提示した思想を経験した世代》というようなことがいいたいタイトルなのであろうが・・・。
 実は本書を通じて、著者は全共闘思想というものに否定的で、その代わりとして全共闘的感性とでもいうべきものを擁護するのである。そうであるなら、本書は本当なら「感性としての全共闘世代」というタイトル、あるいはもっと端的に「感性の運動としての全共闘」とでもしたほうが内容に則したものとなるような気がする。しかし小阪氏は思想を否定できないのである。そこから知識人の問題がでてくることになる。
 1966年にはまだ知識人は権威をもっていたと小阪氏はいう。わたくしが大学に入ったとき、学生自治会主催の新入生歓迎会というのがあった。その当時教養学部自治会は民青系が握っていたと思うが、そこで講演したのが羽仁五郎氏であったと思う。羽仁五郎共産党などという組み合わせは後から考えると漫画であるが、羽仁氏は世に騒乱がおきるのがうれしくてならないというような人なので、その時には共産党に肩入れするのが騒乱の火種を作ることになると思っていたのであろう。美濃部亮吉という嫌味な偽善者が東京都知事になったのが1971年であり、革新自治体などというものを社会党共産党が手を組んで作ろうとしたわけであるから、あるいは、それほど漫画であるともいえないのかもしれない。知識人神話がもしも1970年の時点で崩壊していたとしたら美濃部亮吉のような人間が担ぎ出されることもなかったわけである。
 一部の人間は1968年あたりで知識人神話(少なくとも進歩的文化人神話)は崩壊したと思っていたが、1970年代にもまだ一般には通用していたわけである。
 美濃部亮吉的なるものを偽善的と感じるのは、かれらのしようとしていたことは「他人のため」のものであったということである。それに対して全共闘運動は「自分のため」の運動というものを提示した。「自分のための政治運動」などというのは矛盾そのものなのだが、その矛盾は全共闘運動につねにつきまとっていたと思う。
 だから「全共闘運動」というのは政治運動であったのかどうかが問題となる。小阪氏は身近な問題を解決しようとする運動として全共闘運動があったという。そうであるなら一種の政治運動なのだが、わたくしには「自分はこのような人間であってもいいのか?」というのが全共闘運動であったのだと思う。政治運動ではなく倫理運動なのである。だから身近な問題というのも「自分はこのようであってもいいのか?」と問うきっかけとなることで意味があるのであって、その問題自体はどうでもいいのである。
 それの典型が小阪氏の本でも紹介されている「加担の論理」というやつで、世界のあらゆる問題はお前に無関係ではない!という脅迫である。お前が何もしないことは、それだけですでに一方に加担している!というわけである。どちらの側にいるかということが重要なのであって、ある問題を解決するためにはどうしたらいいかということはほとんど問われないのである。
 むしろ、ある身近な問題をとりあえず改善してしまうことは、現状の本当の問題から人々の目をそらさせてしまうのであるから、するべきではないといった論理さえしばしばおこなわれていたように思う。現状の改善など50歩と100歩の違いであって、そこに潜む根源的問題からみれば何ほどでもないというわけである。
 とすれば、革命以外のことにはすべて意味がないことになる。全共闘運動が絶対的に非妥協的にならざるをえなかった理由であろう。それまでの知識人が批判されたのは、世の中をよくできるなどという甘いことを考えていて、自分は他人のために役にたっているなどという愚かしい幻想にひたっているという理由からであって、「そういうお前の人生は空虚ではないのか!」という問い、「他人のためなどといっているが、そういうお前の内実に目をむけたことがあるのか?」という疑問に、彼等が答えられないとされたためである。
 そうであるなら全共闘運動とはほとんど「千年王国運動」のようなものになってしまう。事実わたくしは全共闘運動というのはそういう宗教運動にきわめて類似したものとなっていたように思う。