E・ウォー「ブライヅヘッドふたたび」

   ちくま文庫 1990年7月
   
 わたくしは吉田健一信者なので、吉田氏愛読の「ブライヅヘッドふたたび」には何回か挑戦したのだが、そのたびに最初の数十ページで挫折していた。このたびようやく読み通すことができた。ウォーの小説は同じく吉田氏訳の「黒いいたずら」(白水社 1964年)は大変楽しく読めて、わたくしの感じではウォーの作品というよりほとんど吉田氏の作品と思えるくらいなのであるが(なにしろ完全な吉田健一文体で訳されているから)、「ブライヅヘッド・・・」は最初の軍隊の場面とそれに続くオックスフォードの部分をなかなか突破できなかった。本書が動き出すのは文庫本でいえば50ページ辺りのブライズヘッド屋敷探訪前後からであるから、もう少しのところで放り出していたわけである。惜しいことをした。
 読了しての印象は、実に濃密な料理を堪能したという感じであろうか? 濃厚にして豪華絢爛、それは描かれた屋敷の華麗や貴族の生活といったことではなく、そこにでてくる人間の豊かさなのである。セバスチャンなど敗残していく人間も豊かなのである。主人公のチャールス・ライダーやジュリアばかりでなく、時代に背をむけたマーチメイン候もライダーの父も、あるいはマーチメイン候の愛人のケアラも、さらにはマーチメイン夫人もくっきりとした一人づつの人間なのである。前半のセバスチャンの崩壊の物語、後半のライダーとジュリアの恋愛の物語、そして最後の宗教的回心の物語、どれもが濃密である。
 実は最後のカソリックの神の顕現の問題は、ウォーはそれをこそ書きたかったのであろうが、わたくしには正直よく理解できない世界である。わかるのは神の存在というものがありありと現実である人が西欧にはいるということであり、そういう神とむかいあうからこそ、西欧では個がくっきりとしてくるということである。(さらにいえば、だからこそ西欧の小説は面白いということになるのかもしれない。)
 この小説において、ウォーは完全な保守主義者であって、姿勢は後ろを向いている。だからある点では、鴎外が「渋江抽斎」を書いたのと似ているのかもしれないが、鴎外とは違ってウォーが懐かしむのは豊かな生き方であるよりも豊かな人間なのである。人間には「本物」の人間と「偽者」の人間があって、セバスチャンは崩壊するにしても「本物」なのであり、チャールズ・ライダーとジュリアはともに「偽者」と結婚していたことに気づく「本物」なのであり、その「本物」同士が結ばれようとするが、その結びつきをもう一つの「本物」である神が割くという物語である。
 ウォーによれば未来は「偽者」が跋扈するする時代になることは避けられないのであるから、まだ「本物」の人間が多くいた過去が懐かしく回想されることになる。そして「本物」であるためには豊かであること、余裕があることが必要であるから貴族が賛美されることになり、貴族制度が崩壊していくことが必定な未来は暗いことになる。この小説の現在時である第二次世界大戦下においてブライヅヘッド屋敷はすでに荒れ果てようとしており、それだからこそ、まだ水彩画の色をしたオックスフォードの町が郷愁をもって回顧され、ヴェニスでの蜜の中に溺れたような二週間が回想される。
 ウォーがここで描きたかったことはカソリックの神の問題であると思われるが、その問題には関心がないわれわれにも感じられるこの小説の豊かさは、ウォーの思想からではなく、小説家としての技量からもたらされている。
 小野田健氏は、この「ブライヅヘッドふたたび」を読んでいるときは至福の時だといった若い友人の言を紹介し、「この気持ちが通じない人は共に語るに足らずとさえ思う」といっている(「イギリス的人生」)。確かにこれを読んでいた数日は至福の時間であった。
 翻訳は例によって健一節。最初は読みにくいが、慣れてくるとするすると読める。
 筑摩世界文学全集79「ウォー グリーン」の巻(1971年)も、今回読んだちくま文庫版もともに絶版のようである。「アマゾン」でみてみると、最近、本書の単行本が刊行されたらしい。この吉田健一訳は最初に文学全集に収載され、そのあと文庫にはいったようで、一度も単行本化はされていないようである。また読み返すことがあると思うので、この単行本も手に入れようかとも思う。



ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)

ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)