ヴォルテール「カンディードまたは最善説」

  岩波文庫 2005年2月
  
 ウォーの「大転落」がその構想を「カンディード」に負うという話を読んで、読んでみる気になった。なかなか面白かった。
 このような本を読んで感じるのは、リアリズムなどいう要請がなかった時代の著者は自由に物語が書けたであろうということである。「カンディード」は、訳者の解説によれば小説ではなく哲学的コントということになるのだが、文庫本で200ページほどの話の中で、ヨーロッパから南米へ、再びヨーロッパ大陸からイギリス・イタリア、最後はコンスタンチノーブルまで旅をするのであるから、景色の描写などしていたら日が暮れてしまう。
 篠沢秀夫氏の「スランス文学案内」(朝日出版社 1980年)によれば、ヴォルテールは史上最大のジャーナリストなのであるが、われわれが描く啓蒙思想ヴォルテールのイメージは84年の生涯の晩年20年間のものであり、この「カンディード」はその晩年20年の最初期に書かれたことになる。同じく篠沢氏は「篠沢フランス文学講義Ⅰ」(大修館書店 1979年)でこんなこともいっている。「サルトルという人は、この人は非常にまじめな人ではありますが、アジテーターという素質を持っていますね。これは十八世紀のヴォルテールとよく似ています。ヴォルテールサルトルというのは、非常に似た性質を持っていて、したがって、スローガンとか、あおりたてるということに関しては非常にうまいですね。大体五年ぐらいたつと、反省しています。」 この五年ぐらいたつと、反省しています」というのは、サルトルに対してだけいわれている言葉なのかもしれないが、ヴォルテールも豹変する君子であって、この「カンディード」に書かれたような「最善説批判」も若いときから抱いていた考えではないらしい。晩年の20年の前のヴォルテールは宮廷の人、貴族の世界の人であったのであり、宮廷の人として生きる試みが挫折したあと、はじめて啓蒙の人ヴォルテールが生まれることになったらしい。
 フォースターは「ヴォルテールとフリードリッヒ大王」(「フォースター評論集」 岩波文庫 1996年)でこんなことを書いている。「ヴォルテールは、欠点だらけではあっても自由人でした。フリードリッヒには魅力も知力もありました。しかし―専制君主だったのです。」 
 自由人というのは他人には従いたくないということであるかもしれず、ヴォルテールは宮廷でちやほやされることが不可能になったから転向しただけなのかもしれないけれども、それでもフォースターはいう。「もし自由と多義性と寛容と同情を大切に考えているなら、全体主義国家の空気は吸えないということを、彼はベルリンで学んだのです。(中略)何かが欠けているのです。人間の精神がないのです。」
 ポパーは「寛容と知的責任(クセノファネスとヴォルテールからとられた)」(「よりよき世界を求めて」 未来社 1995年)で、こんなことを言っている。「「啓蒙とは何か」とヴォルテールは問い、そして次のように答えています(以下はわたくしの自由訳です)。
 寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては終始誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」
 ポパーの自由訳というのは曲者で、このヴォルテールの言葉の出典も示されていないが、「最善説」というのは、「個々の不幸は全体の最善をつくり出す」とするのであるから、今の世にどれほどの不幸があろうとそれは最善であることになり、世の中に誤りがあることをみとめない立場であるので、啓蒙の立場と対立することになる。
 わたくしは、昔、啓蒙というのを、ものを知ったひとがものを知らないひとを教化するという思い上がった不遜の思想であると思っていたのだが、ポパーを読んでいるうちに、われわれは何も知らないが、それでもみんなで少しでも賢くなっていこうというのが啓蒙であると思うようになった。世の中には偉い人も権威もなく、またすべてをわかった人などはどこにもいない。誰に教えてもらうのでもなく、自分で考えていかなくてはいけないというのが、啓蒙ということなのだと思うようになった。ヴォルテールがその立場に立つならば、当然、「カンディード」は書かれなくてはならないことになる。
 啓蒙とは今のままでいいということを認めないことであるから、神により現在が最善のものとしてつくられているという見解を否定する。世の中に現実に何らかの悪が存在するとすれば、現在は最善ではあるとはいえないことは明白であるように思える。「カンディード」で悪の代表として例示されるのが、たとえばリスボン地震である。
 しかし「個々の不幸は全体の最善をつくり出す」というのはなかなか否定しがたい論でもある。現在悪が存在するとしてもそれは最小なのである、といわれると論駁は容易ではない。悪がないのが最善ではないか、という議論に対しては、われわれが自由意志を持つのは善であるが、自由意志は必然に悪も生む。自由意志がなければ悪も生じないが、善もずっと減少する。自由意志があるときの善の総量は、自由意志が生む悪の総量を大幅に凌駕する、よって悪があったほうが善も大きい、よって悪は必要である、証明終り、といった議論がされるらしい。この議論によってリスボン地震が擁護されるとは思えないが、地震がいずれどこかでおきることは必然であるが、たまたまリスボンで起きたことは、最小の害で済む場所でおきたのであるとでもいうのであろうか?
 もともと、このような議論がでてくるのは、神が唯一全能であるという前提が一方にあり、それにもかかわらず世には悪があるということもみとめて、それを両立させるというアクロバットが必要になるからである。そういう曲芸を避けるためには、神はいないとしてしまうのが一番簡単であるが、神は唯一でもなく全能ではないとするのももう一つの行き方である。
 筒井賢治氏の「グノーシス」(講談社選書メチエ 2004年)の説明によれば、グノーシス主義のウァレンティノス派のプトレマイオスの説教であらわれる神デミウルゴス旧約聖書の創造神にあたる)は、唯一神で全知全能どころか、最下位の神であり、至高神の存在をまったく知らない存在である。どう考えても、こちらの方が、神の全能を救うためには有効である。しかし「ニカイア信条」で「われらは唯一の神を信じる」などというのは、そういうグノーシス主義を異端として排除したからであり、キリスト教は悪についてずっと苦しい説明を強いられているわけである。
 「カンディード」でパングロス博士が説く最善説は、ライプニッツの「この世界はあらゆる可能な世界のうちで最良のものだ」という説のパロディーなのだということであるが、「西洋哲学史3」(みすず書房 1970年)でラッセルは、マニ教徒ならば、「この世界はあらゆる可能の世界のうちで最悪のものである」と言い返すかもしれないと皮肉をいっている。ライプニッツの説が論理的に可能であるならば、マニ教徒の説もまた同等に可能ということである。
 マニ教もまた筒井氏によればキリスト教グノーシスの関連を否定できない宗教なのだそうであるし、アウグスティヌスも若いときはマニ教徒だったのだそうである。ラッセルによれば、「この世界はあらゆる可能な世界のうちで最良のものだ」というのはライプニッツの世を忍ぶ仮の姿であり本心からの説ではないのだそうであるけれども、哲学音痴のわたくしとしては「モナドには窓がない」などといわれてもちんぷんかんぷんであるから、「カンディード」を読んで、少しはライプニッツ哲学へのとっかかりができたような気がしている。
 そしてもちろん、神がいないとすればすべては簡単になる。そして神が現在の世界を創ったのはないとすれば、現在においては進化が世界をつくったことになる。進化が神にとってかわったのである。世界はなぜ今のようになっているか、それは進化がそうしたから、というのであれば、進化は現在の「最善説」であり、S・J・グールドらが社会生物学を「パングロス主義」と攻撃するのも故なきことではない。
 しかし、グールドらはもちろん進化を信じているのであり、原理主義者の創造説を不倶戴天の敵ともしているわけである。グールドらは進化論を全面的に信奉しているのであるが、同時に人間には進化論を適応したくないのである。人間は特別な存在であるとするのがキリスト教の肝であり、同時にもっともいやな部分、アキレス腱でもあるわけで、反キリスト教かつ隠れキリスト教シンパであるグールドの論は隙だらけであり、ぼろぼろなのであるが、それでも人間に進化論を適応してしまうと人間の尊厳が失われるとするのである。人間には生まれながらにして基本的人権があるなどというのは進化論からは出てくることは絶対にないものなのであるから、進化論だけになると弱肉強食の地獄が出現するとするのである。
 それでは社会生物学派はどうするか? 人間の善性?も進化で説明できるとするのである。少なくとも善性?の前提である意識というようなものは、そのようなものを備えることが進化的に有利であるとするのである。本当に、進化を司る自然が神にとってかわったという感じである。
 養老さんの最初の著書?「ヒトの見方」(筑摩書房 1985年)に収載された「剰余とアナロジー」(この文章は最初に「ゲームの臨界」という本に収載されていて、わたくしはその本を読んだ記憶があるから、最初に読んだ養老さんに文かもしれない)に「ヒトに生じた特有の剰余は中枢神経系であり、それもいわゆる新皮質のみである」とわりに気楽に書いてある。このころはまだあまりものを思わなかったのかもしれない。
 20年前にこれを読んだときには素直になるほどと感心したものであるが、しかしその後、少しは本を読んできてみると、こんなこと簡単にいっていいの?である。もともとこの文は「サルはゲームをするか」という問いを「ヒトと動物はどこが違うか」という問題に還元して論じているものであるが、「ヒトと動物はどこが違うか、あるいは違わないか」という社会生物学論争の中心の論点を15ページほどで論じるというなかなかいい度胸の文である。
 単なる剰余は進化の上ではハンディキャップになるだけなわけだから、ヒトの脳の新皮質は単なる剰余であることはできない、人の進化での生き残り上何らか有利に働いたのでなければならない。問題はヒトの特徴のすべてが進化の上で有利としなければならないのか、ある時点でヒトは進化上決定的に有利な何かを身体上に獲得したので、それ以降に生じた変化は必ずしも進化の上で有利になるものでなくても淘汰されずに残ってきたかという問題であるはずである。グールド一派は、進化の過程の早期にヒトは淘汰圧を離れたとしたいのであり、社会生物学派はヒトの特徴のほとんどを淘汰の産物として説明したいのである。
 わたくしは「神なしで行きたい派」であるので社会生物学派のほうが潔い感じがする。学問的証拠もそちらに組しているように思える。そうすると基本的人権などというのはどうなるのかなとも思うのである。「我等を創りたもうた神は我々にまた自由もあたえてくれた」などという文章はもちろん神を信じるからなりたつのであって、前半なしで「我々は自由である」というのは無論理である。「剰余とアナロジー」によれば、カソリックでは「ヒトは理性と自由意志と良心を持つ」と定義するのだそうである。これは神があればこそなりたつ。ヒトも動物の一種であるとすることからは、こんなことは出てくるはずがない。
 なんだか「カンディード」とはまったく関係ない話になってしまった。啓蒙とは神を否定するとともに人間のささやかな前進をも信じる思想である。それはたかだか人間の千年か二千年の歴史にかかわることであるので進化の世界とはかかわりのないものである。啓蒙とは人間もまた動物の一種であるということを前提としているものであるのだと思う。だから、それは人間以外の動物から人間への飛躍をみとめない思想であるはずである。とすると社会生物学は啓蒙派の末裔になるのだろうか?


カンディード 他五篇 (岩波文庫)

カンディード 他五篇 (岩波文庫)