E・ウォー「ピンフォールドの試練」 

   集英社「世界の文学 15」 1977年
   
 最近、こんな面白い小説を読んだことがない。ウォーの小説は「黒いいたずら」「大転落」「ブライズヘッドふたたび」に次いでこれで4冊目であるが、系列としては「黒いいたずら」につらなるような滑稽小説ということになるのかもしれない。少なくともシリアスな小説ではない。といって笑いを目指した小説でもない。あるひとが真面目にあることに対応している姿というのははたからみると滑稽でもある、という意味で、「真面目な滑稽」とでもいうべき小説である。
 話の筋は簡単で、ピンフォールドという中年の作家が、睡眠剤の多用とアルコールの呑みすぎのため調子を崩し、転地療養のためセイロン行きの船に乗るが、その船の中でも幻覚(主として幻聴)に悩まさせるが、それと雄々しく闘う、という話である。
 闘う相手は幻覚なのだから、ドンキホーテの風車ではあるのだが、ピンフォールドがその幻覚にあたえる解釈はきわめて理性的、合理的なものであり、またしたたかな自己認識を示すものでもあるところがこの小説の面白さの根源となっている。
 要するに、ピンフォールドは降伏しない。「試練」を乗り切るのである。強烈な幻聴をききながら、自己を崩壊させないために、その幻聴に合理的な解釈を与えつづける。
 ウォー自身、睡眠薬中毒かなにかで、実際に幻聴を体験しているらしい。しかし、それを体験記のようなものにはしないで、小説としてしまうのがウォーのウォーたる由縁なのであろう。ここで描かれた中年の小説家は、ウォー自身であるのと同時に、突き放されて観察された一人の小説家の像でもある。自己に絶対の自信を持ちながら、自己惑溺しないという離れ業がここで示されている。
 この小説を読んでみようと思ったのは、「大転落」や「ブライズヘッドふたたび」を読んで、あと翻訳で読めるウォーの小説はもう残っていないのかなと思って、既刊の翻訳を検索して、見つけたということなのだが(この「世界の文学 15」は古書店から入手したが、現在流通している「集英社ギャラリー「世界の文学」5 1990年」にも収められているがあとからわかった)、最近、倉橋由美子の「偏愛文学館」(講談社 2005年)を読み返して、そこでこの中篇小説が激賞されていたので、読んでみたくなった、ということもある。つくづくと、倉橋氏のものの見方や考え方はわたくしのそれと近いということを感じる。とにかく倉橋氏は「現代人の不安」とかを書く作家が大嫌いで、だから三島由紀夫信者になったのだろうが、吉田健一の方が三島由紀夫より筋金入りのアンチ「現代人の不安」派であることがわかって、吉田健一派に宗旨変えをしたのであろう。
 「ピンフォールド氏の趣味の中でいちばんはっきりしているのは消極的な性質のものばかりで、彼はプラスチックや、ピカソや、日光浴や、ジャズや、その他どういうものであっても、彼自身の生涯のうちに現われたものはすべて大嫌いだった」というのだから筋金入りである。これでは「現代人の不安」になどとらわれるわけはないし、カソリックにむかうのも何となくわかるというものである。プラスチックとピカソが並べられているところの悪意など、なかなかのものである。
 ということで、本書も吉田健一訳。例によって、句点が続く長い文。原文をみたらピリオドを打ってあるところを平気で、続けてある。
 これを読んで、吉田健一のいくつかの短編(「飛行機の中」とか「航海」、いずれも「旅の時間」(1975年 河出書房新社)所収)の気分にとても近いものが「ピンフォールドの試練」にはあるのではないかと感じた。
 また読み返すにしても、日本語で読めるウォーの小説が乏しくなっていくのが寂しい。いよいよ英語を勉強しなおして原書で読むしかなくなるのだろうか? 本書は中篇で大して長くはないので、まずこれからとりかかってみようか? 

世界の文学〈15〉ウォー,ウィルソン (1977年)ピンフォールドの試練 アングロ・サクソンの姿勢

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